念仏もうすところに立ち上がっていく力があたえられる

法語の出典:西元宗助

本文著者:池田 真(名古屋教区萬瑞寺住職)


この言葉は、念仏の教えが、自分だけでなく、他者の幸せに開かれていくことを示そうとしています。この「立ち上がっていく力」とは、「自分のことしか考えない」我が身に気づき「お役にたちたいと願う」ようになった、感謝の念をあらわすようです。(原文意)


ただ、「立ち上がっていく」という表現だけに注目してしまうと、何か辛いものを感じてしまう方がいるかもしれません。長く立ち上がれていないという自身を、周囲だけでなく、仏教からも理解されないと感じてしまうからです。だからと言って、簡単に「立ち上がらなくていいよ」と言われるのも違うように思います。


はっきり言えることは、今生において立ち上がれないような出来事の中を先人たちが、念仏を申してこられたことです。念仏の教えを日本に興隆(おこ)された法然聖人や、親鸞聖人、また蓮如上人も、共に親との悲しい別れや修行での挫折、外からの念仏弾圧など、浄土に還られるその時まで、多くの悲しみや嘆きの中に身を置かれています。そうした悲しみや嘆きは現代でも、死別や病気、仕事・人間関係の行き詰まり、災害などをとおしてもたらされ、避けられません。


私のいる愛知県では、ご門徒のお宅に毎月伺って、ご命日のお勤めをするという、月(月忌)参りがあります。遺族の方といっしょに手をあわせて、お念仏を申します。最後は「御文」を拝読します。


「御文」を拝聴し思うことは、蓮如上人が身をもって聞法しておられることです。


まことに、死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も、財宝も、わが身にはひとつもあいそうことあるべからず

(真宗聖典七七二頁)


と、妻・蓮祐(れんゆう)様や二女・見玉(けんぎょく)様等との死別、本願寺や吉崎御坊が灰燼(かいじん)する状況(家・宝も永遠でない、と。帖外御文の意)に身を置きつつ、阿弥陀の救いを自他に向かって説かれているようです。


また「御文」の末尾には「あなかしこ、あなかしこ」と、謹んでこの念仏の教えを申しあげます、とあります。私は、「ただあきないをもし、奉公をもせよ、猟、すなどりをもせよ」(真宗聖典九二三頁)と、(したた)められたように、生きる(ごう)を敬い、その御用を尽くすことを励ましておられるように感じています。そしていかなる業、立ち上がれない現状にも、自身の真心や未来までも見失わないよう、呼びかけておられるようです。しかも、「報恩」の念仏とありますから、この命をもってお礼が言えるように、帰るところはお念仏、仏の救いであると教えられます。


月参りでは、暑い寒いという気候の話、ご自身・ご家族の出来事や世間話をします。いろいろある中で、話の行き着くところが「身も世の中も、思いどおりに、なりませんね」になります。老いの現状に「悔しい」と言われることもあります……。


念仏申すとは、そのような現状のままに仏前に座り(どこでも)、しかも一人ひとりの歩みが、定まっていくことへの願いが込められているのでしょう。昔も今も、これから先も、人である以上逃れられない問題がありましょう。しかし、今、私に起きている悲しみや苦しみの心の模様を閉じ込めるのではなく、言葉や声にする(念仏する)ことで不思議と元気があたえられるようです。


東本願寺出版発行『今日のことば』(2020年版【8月】)より

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2020年版)発行時のまま掲載しています。

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