自分のあり方に痛みを感ずるときに 人の痛みに心が開かれる

法語の出典:宮城 顗

本文著者:藤井慈等(三重教区慶法寺前住職)


このお言葉は、九州大谷短期大学の報恩講で、学生さんたちに「人間としての新しい旅立ち」という題で故宮城顗先生がお話しされたご法話(『他人さえもいとおしく』宮城顗講話集Ⅱ)に出てまいります。


この法話の主題は、「人間としての新しい旅立ちは、(中略)「私が私である」というところに立つこと」であり、「なによりも自分自身の与えられた人生、拒否し逃げだしたいと思われる事実を「この他に私なし」と引き受けて生きる力をたくわえていただきたい」という、次世代の学生たちへのメッセージであふれています。


一体、どういうことを言っておられるのでしょうか。根本問題は、私は私でありながら、その私を引き受けることが至難であるというところにあるようです。もっと言えば、私が私を嫌うのです。「侮る」といってもよいのでしょう。ところが「私」というものは、個人を言い表す言葉でありますが、私という存在はさまざまな条件を離れてあるわけではありませんから、時代と社会の制約を受けています。生まれた国、社会、家などに育てられてきた歴史的存在であるだけに、それなりの世界をもって生きているのであります。


自分のあり方に対する痛みとありますから、自己の本来から今の自分のあり方が閉ざされている時の、いわば本来からの呼びかけとして「痛み」というシグナルがあらわれるといってよいのでしょう。しかし、日常心の深い迷妄に覆われている私たちは、本来の呼びかけとして聞くよりも、さらに心を閉じるかあるいはいかに痛みをなくすか、楽になることを選んでしまいます。つまり、痛みの根底からの呼びかけを聞くことが難しいのです。そこには人に出会い、教えられないと心開かれない人間の構造、秘密があるのだと思われます。その意味で「痛み」という感覚を得た時こそ、我・他者(ひと)共に人間を回復する転機なのです。


「不安」という感覚も同じであるように思います。それは、例えば老・病・死にもあらわれてまいります。私も後期高齢者と呼ばれるような歳になりました。若い時には思いもしなかった出来事に遭遇します。今まで出来ていたことが出来なくなる体験です。お寺に来られるご老人から、足が悪い、耳が悪いでお参りできなくなったと言われた後、「あかん(駄目な)ものになりました」「役にたたなくなった」という言葉をよく聞かされました。ここには何よりも、世間の物差しになっている能力主義の介在を見ます。


問題は、そうした物差しが、私たち日本人のいわゆる「宗教的体質」にまでなっているということであります。けれども、本来の自己はつまるところ納得していないのです。そこに、「痛み」を「痛み」と感じないという、深く重い人間の日常心にひそむ我執の問題があるのです。


しかし、そのような私たちにまで届いている呼びかけの言葉、南無阿弥陀仏の世界、「本有(ほんぬ)の願い」が人間には回向されている。そのような念仏の歴史の中に生まれ育てられてきた人びとが、この「痛み」そして悲しみをとおして、かけがえのない出遇いの時、心開かれる世界を、聞法の生活として証(あかし)してくださっています。


実は、痛みは「如来の痛み」つまり「悲しみ」なのであります。そこに宮城先生が、「どうか、みなさん。一人の人間の重さを知る心をもって、いろんな人に出会っていただきたい。言葉を大事に聞いていただきたい」とむすばれていますように、今、共に生きる世界へと歩みをうながしてくださる言葉としていただきました。


東本願寺出版発行『今日のことば』(2020年版【9月】)より

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2020年版)発行時のまま掲載しています。

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