此岸に留まることば
(中村 玲太 教学研究所助手)
京都駅からほど近い、東九条にある鴨葱書店。二〇二四年にオープンしたこの小さな書店に行くと、関連書籍の陳列にいつも唸ってしまう。自分の関心から知っていた本の「隣」を教えてくる稀有な場所である。そんな鴨葱書店が開店時の購入特典として配っていたブックレット、歌人・堀静香の『まぼろしのひまわり畑へ』(鴨葱書店)には、次のようにあった。
自分にも「静かに横たわっている」歌が数首ある。短歌を求めて読み始めたのではないのであるが、穂村弘のエッセイ集『世界音痴』(小学館、二〇〇二年)に収められた短歌を時折思い出す。同書の表題作「世界音痴」では、社会生活で求められる、暗黙の了解とでも言うべき「自然な」振る舞いというものがあるが、その「自然さ」をもてない者は世界に入れないのだと、穂村は軽妙な筆致で描き出す。続く「再び、世界音痴」は重ねて、世界から「隔てられて」いることを描いたエッセイである。その最後に収められた一首が、「いたみもて世界の外に佇つわれと紅き逆睫毛の曼珠沙華」(塚本邦雄)。
曼珠沙華とは、彼岸花のことである。この紅き彼岸花は世界の外でただ茫然と立ちつくしているのではなく、痛みを深く自覚しながら佇んでいる。私には、その立姿は疎外をもたらす世界を、痛みをもって告発しているようにも映る。これは戦後日本社会に警告を発するような歌も遺した塚本の他作品に少々引きずられた解釈かもしれない。
この一首を長く誤って記憶していた。記憶の中では、「いたみても世界の外に…」であると。苦しんでも、辛くとも世界の外に立つのだと誤解して覚えていたのだ。この娑婆世界を厭うべきことを教えられ、欺瞞あふれる世界から何としても距離を置き、世界を外から眺めようとする意気が投影されたのだと思う。しかし、世界と断絶することなどできず、厭うべき娑婆世界のなかにしか自己はいない。塚本の歌も、世界と断絶していない(痛みがある)からこそ成立する一首であろう。
こうした誤解がむしろ一つの歌を考え、私のもとにことばが留まるきっかけともなった。先のブックレットで堀は、「ただそのことばがここにあることに、留まってくれることにこそ、わたしは生かされる」とも言う。ただここに留まっていることばとは何だろうかと考える。ここにあるその存在をすぐ忘れてしまうが、苦しみや不安を通して浮上してくることばが確かにある。久遠の昔よりこの世界に留まる仏語を思う。
(『ともしび』2025年8月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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