大切なものは目に見えない
(三村 翔子 教学研究所助手)

 私には、大事にしていることばがある。それは、サン=テグジュペリ作『星の王子さま』の一文。「かんじんなことは目に見えない。心でみなくちゃ物事はよく見えない」ということばである。
 

 歳を重ねれば重ねるほど、新鮮に驚きを感じることや発見することが減り、受け止め方も変わってくる。時には、立場や体裁を繕うことばを発することもある。これまでの経験や物事に対する見方や考え方で、気づかないうちに「これはこうだ」と形を決めてしまう。
 
 目に見えるものに心を奪われ、何か大切なものが置いてけぼりになっているのではないだろうか。「本当に大切なものは何だろうか。目に見えるものだけが全てだろうか」と考えるきっかけは、いつでもどこでも何度でも、誰にでも与えられている。何かを見たり、聞いたり、感じたり、考えたりする。人やものから影響を受けたり与えたりしながら、驚きをもちあわせて、大切なものを見つけていきたい。
 
 ──「おいて行かんといて」と泣き叫ぶ声が聞こえた。
 
 その時、私は、家へ帰るため、駅のホームで電車を待っていた。どこから声がするのだろうか。声のする方向を探すと、誰かにむかって必死に泣き叫ぶ、子どもの姿があった。誰かと一緒にいたはずが、少しの瞬間に、その誰かを見失い迷子になってしまった。そういう状況に、たまたま私が遭遇した。
 
 「おいて行かんといて」「おにいちゃん、おにいちゃん」と嗚咽まじりに泣き叫んだ甲斐があったのだろうか。おにいちゃんであろう人物が、すれ違う人々の間をうまく通り抜けながら、一目散にかけていく姿があった。なんとか無事に会えた二人が見えたところで、私の立っているホームに、電車が到着した。電車に乗り込むやいなや、車窓から様子を見た。だが、そこにはもう、二人の姿はなかった。
 
 何か心に響き感じるものがあったからであろうか。小さい頃の懐かしい出来事を思い出した。私には、二つ年上の兄がいる。いつも「翔子、お前も一緒に行くか」と声をかけてくれる兄の後ろを、「お兄ちゃん、お兄ちゃん」とよくついてまわった。小学校二年生の頃、公園で自転車を漕いでいた時、水晶玉くらいの大きな石に勢いよくぶつかって、縁石で肋骨を強打した経験がある。痛みのあまり声が出せず、肋骨を押さえながら、必死に兄がいる場所へむかった。私の状態を見てすぐ状況を察知したのだろうか。兄がキックスケーターに私を乗せ、なりふり構わず全力で漕いで、家に連れて帰ってくれた。
 
 恥ずかしさや体裁を気にせず、なりふり構わず全力でかける「おにいちゃん」の姿と「お兄ちゃん」の姿が、重なって見えたのだろう。真っ直ぐな心で、全力を注いでくれていたことにさえも、気づけていなかった。そういう私が「おにいちゃん」の姿によって、兄の優しさやあたたかさを思い知った。
 
 今もなお、兄の優しさはずっと変わらない。そっとそばで支え続けてくれていたんだと思うと、今日も「翔子、お前も一緒に行くか」と聞いてくれる、あたたかい兄の声がする。

(『ともしび』2025年9月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)


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