念仏を選ばれた意味

著者:平野 修


 プレゼントというのは、自分の都合で選ぶものではなくて、相手のことを思って選ぶものですね。それと同じことなのです。仏さまが「念仏せよ」と言われたのは、「何でもいいから」という意味ではないのですね。選んだという意味は、少なくとも「念仏せよ」と呼びかける相手の人のことを思って言われているわけです。


そうすると、阿弥陀如来が「念仏せよ」と言われた理由は、我々の方にあるのだという意味になります。我々の方に理由があって、「念仏しなさい」と言われたのです。仏さまの頭の中で考えたという、そんな意味ではないのですね。どうも我々の方に理由があって、「念仏せよ」とおおせになられたのだということになります。


川の流れが急なところがあって、ある人がそこで水遊びをしているとします。急流の中で、その本人は泳いでいるつもりで、水遊びをしているのですね。でも、外から見ると、どう見てもその人は流されていて、次は滝壺に落ちるぞ、という危ない状態にある。それを知っている人が、一本の棒をその人の前に出したとします。それは、その相手の人が流されていて、とうてい這い上がることができない、もう結末は見えているということで棒を出したわけです。しかし、急流の中で泳いでいると思っている人にしてみれば、「何でこんな邪魔な物を出すのか」と思うかもしれません。「目を突いたらどうするのか、泳ぎの邪魔じゃないか」というふうに考えたとします。すると、これはすれ違いになります。


「念仏せよ」というのも同じです。自分の力で急流の中を泳いでいると思っている我々にとっては、「邪魔なものを出して」というふうにしか思うことができません。でも、実は我々は急流に流されていて、結末はどうなるか、仏さまには本当に見え尽くされているのです。だけど、本人はそのことを知らないでいる。ですから「念仏せよ」と言われた。なぜそう言われたのか、その理由は我々の方にあるということです。



『本尊の意義をたずねて』(東本願寺出版)より


東本願寺出版発行『真宗の生活』(2021年版③)より

『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2021年版)をそのまま記載しています。

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