己れに願いはなくとも 願いをかけられた身だ

法語の出典:藤元正樹

本文著者:梶原敬一(姫路第一病院小児科医、山陽四国教区光明寺衆徒)


「己れに願いはなくとも願いをかけられた身だ」。ここに言われる願いとは「願生心」であります。願生心とは文字通り、生まれようと願う心であり、生きようと願う心であります。


そのような願いは、私たちには無いのだと言われているのです。私たちは、ものごころがついて以来、様々な願いをもって生きてきました。それを、夢として、希望としてもつことは、ある意味で私たちの生きる支えともなってきました。そのような願いは「願生心」と呼ぶことはできないのでしょうか。


夢や希望となった願いはいつか時がきて、叶えられるか叶えられないかという結果が出ます。その時、叶えられなければ、失意落胆し、生きる希望を失います。叶えられれば、その時は喜びにあふれ、いのち輝く思いに浸りますが、それもまもなく思い出となり、その思い出とともに願いは過去の中に消えていきます。新たな目標が見つけられなければ、かえって絶望が深くなっていく恐れさえあります。

 

まさに希望をもつから絶望することになってしまうのです。


この絶望は私たちが願と欲を混乱することから生まれてきます。


欲は今を生きようとする力を与えます。


願は未来を生きようとする力を与えます。


欲は、私が私であり続けるためにすべてを、今ここに集めようとする用きです。未来さえも現在の中に取り込もうとする力です。願いが形となった夢や希望さえも現実的な目標にするのはこの欲の用きです。


願は、私から未来の私を開かせていく用きです。今ここにいる私を種として、未来に花開かせようとする力です。どこまでもどこまでも私を種として守り続ける用きです。


今を生きることに追い立てられていくと、願は欲に覆われてしまいます。そして願の表す未来を見失って花開く時を失ってしまうのです。


私たちの、様々な願いも、未来を失い、単なる夢や希望になった時、願いは消えてしまうのです。


「己れに願いはなくとも」とは願いが欲に覆われて未来を失った私たちを表しているのです。しかしそこから「願いをかけられた身だ」と言われます。〝心によって見失った身を再発見せよ〟と言われているのです。


身は私に先立って存在しているこの身であります。この世界を、「今、ここ」として受け止めている、いのちの形です。そして、この身と世界の応答として願いは用き続けているのです。この願いを自覚する時、私たちはかけがえのない自身に本当に出会うことができるのです。


「己れに願いはなくとも願いをかけられた身だ」という藤元正樹先生の言葉は、「人間は決して孤独ではない。世界の声と共に生きているのだ」と、私たちに生きる勇気を与えてくれているのだと思います。

 


東本願寺出版発行『今日のことば』(2021年版【5月】)より

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2021年版)発行時のまま掲載しています。

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