今、ここにある未来
(織田 顕祐 教学研究所長)
池田勇諦先生、最後の親鸞聖人讃仰講演会の抄録を公刊できたことは大いなる喜びである。随分以前のことだが、先生がある講話で次のようにお話されたことを読んだ。それは、パウル・ティリヒが『生きる勇気』という書の中で、「いつの時代も人間は死を畏れるものであるが、時代のパラダイムによって表現が異なる。それを不安の三種相と説いている。つまり、古代の生存の不安、中世の罪責の不安、近代以降の無意味の不安である」と述べている、と紹介するものであった。このことを知り、私は大きな手がかりを得たことをよく覚えている。そのとき、釈尊・親鸞・清沢満之という諸祖の教えの言葉をどのように学べばいいのか困っていたが、池田先生のご指摘によってその後の方向性を頂いた。
また、本山の夏安居で、「真実證の回向成就——『顕浄土真実證文類』述要——」(二〇〇六年)を聴聞したことも印象深い。これは今回の讃仰講演会まで一貫する課題であり、先生は宗祖の真実証と二種回向の関係をずっと思索してこられたのである。
宗祖は「正定聚に住する」と「必ず滅度に至る」の二つを真実証の内容とされたが、この了解については種々の意見があるようである。そこでこの点について、大乗『大般涅槃経』(以下、『涅槃経』)に、仏は「果の中に因を説き」「因の中に果を説く」(「迦葉菩薩品」『大正蔵』一二・五八〇頁・下)ので注意が必要だと説かれている箇所に注目してはどうかと提案したい。「必ず滅度に至る」は、『涅槃経』の「因の中に果を説く」に当たる。「至る」というのは、「至った」ということではない。「至った」のであればこれは「果」である。それ故、「至る」のはこれからであり、必ず至ると言うのである。宗祖が言われるように「滅度」は大般涅槃であり、無為法身である。これが「果」であることは議論の余地はない。それを「因の中に説く」というのは一体どのようなことなのか。『涅槃経』によれば、大般涅槃の因位の名称は「仏性」である。大般涅槃と衆生の仏性は同じものの、果位と因位の違いであると『涅槃経』は説いている。それ故、「必ず滅度に至る」ことは「衆生の仏性」と同じ事態であり、その異なる表現であると言える。
ご和讃によれば「大信心は仏性なり」(聖典第二版五八五頁〔初版487〕)であり、それを「証巻」の冒頭では「往相回向の心行を獲れば」(同、三一九〜三二〇頁〔初版280〕)と言い換えられたのである。つまり、如来回向の「信心」の中身を因果に開いて「信巻」と「証巻」が成り立っているのであって、「真実証」を信心と切り離して考えることはできない。
因位の仏性と果位の大般涅槃は不二であって、異なるものではないが、言葉が二つある以上同じものでもない。『涅槃経』はこれを「因中説果」「果中説因」と説くのである。仏性という視点から見れば、大般涅槃は今ここにあるとは言えないが、ないとも言えない。この関係を因から見て「必ず至る」と言うのである。これは時間的なことのようであるが、決して今と切り離された常識的な未来を言うのではない。それ故、先学はこれを「純粋未来」と呼んだが、ここでは「今、ここにある未来」と呼びたい。
(『ともしび』2026年1月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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