永遠の戦後
(木全 琢麿 教学研究所助手)

 あらゆる悲劇は時の経過とともに風化し、過去のものとなっていく。けれども、我々日本人には決して「忘れてはいけない物語」がある。終戦から八十年の月日がながれ、「戦争」は今、遠い過去へとすぎ去ろうとしている。戦争を実際に経験した語りべは確実にその数を減らしていき、やがては零になる。近い将来、戦争という悲劇は体験者という真の語りべを失うことになるのである。
 

 私にとって一番身近にいた戦争体験者は祖父であった。祖父は無口な人であったが、その性格は話題が戦争におよぶとより顕著なものとなった。戦争について祖父は多くを語りたがらなかった。
 

 小学生の時、私は子供の無邪気な精神のままに祖父に尋ねたことがある。
「お祖父ちゃんは戦場で人を殺したの?」
 

 言葉にした瞬間に、胸の奥が妙に騒ついた。孫からの突然の問い掛けに、祖父も驚いた様子だった。けれども祖父は、何一つ上辺を繕うようなことはしなかった。この時、自分の経験した戦場の厳しさについて、はじめて少しだけ話をしてくれたのである。祖父の話は、戦場は自分達の攻撃が相手に届いているのかさえ分からない場所だったということであった。今思い返してみると、祖父が私に伝えようとしたのは、前線では誰が誰に殺されて、誰が誰を殺したかなんてことは分からないという戦争の残酷な現実だったのではないかと思う。
 

 私が祖父の戦争について少しく知ることができたのは、祖父が亡くなった後のことである。祖母や母から聞いた話が断片的な記憶として存在するのみであるが、それらを整理すると、祖父の戦争体験が極めて過酷なものであったことが分かる。
 

 第二次世界大戦の戦況が激しさを増す中で、ついに若き日の祖父にも召集令状が届いた。けれども、出兵直前に腸チフスに罹り戦地行きは延期となった。祖父が乗るはずだった船で先に戦地に向かった戦友達は、戦場で壊滅的な打撃を受けて、ほぼ全滅したという。祖父自身も遅れて戦地へと赴き、そこで戦闘を経験し、最後は捕虜となった。捕虜時代には盲腸を発症し、現地の劣悪な環境の中で手術を受けた。その結果、祖父の脇腹には終生消えない酷い傷跡が残ることになった。終戦後は戦友会にはほとんど参加せず、軍人恩給も受けとらなかったという。
 

 こうした話を聞くうちに、ある時から私は、祖父は戦争で多くのものを失い、癒やせぬ傷を抱えたまま生きてきた人なのだと思うようになった。恐らく祖父は生涯静かに戦争を憎み、忌避しつづけていたのだろう。そして、そんな祖父を想うたびに、私は祖父の抱きつづけたその戦争への一念は、体験者の内なる「非戦への願い」と呼べるのではなかったかと思うのである。
 

 体験者のすべてが戦争の悲惨さを語れたわけではない。だからこそ語られた悲劇と、多くの戦争体験者の悲痛な願いを、我々は後世へと語り継がなくてはならないのだろう。「もはや戦後ではない」というフレーズが、昭和三十年代の日本で戦後復興を象徴する言葉として流行した。けれども終戦から八十年の時を経て、今我々が願うのは、「戦後」と呼ばれる戦争のない世紀が終焉しないことである。戦争という悲劇の物語を語り継ぐことによって、我々は「永遠の戦後」を希求しつづけなければならない。
 

(『ともしび』2026年3月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)

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