2003(平成15)年 真宗の生活 9月 【無畏】
<生活の中の神仏>
同じ町内に暮らしていても、隣の家の人がいったいどのような人なのかということがわからないのは、最近では大都市のマンションだけの話ではなくなりました。希薄になった近所関係の中で、一緒に顔を合わせて親しく共同作業をしたり、話をする機会といえば、氏神様の行事、特にお祭りの時ぐらいしかないというところも多いのではないでしょうか。
今では、かつてのように、神社の行事に参加しなければ、農作業の手助けを得られないということもないのですから、信仰上の立場から行事に参加しないことは自由です。にもかかわらず、実際には、祭りなど神社を巡る行事はなくなることはありません。それは依然として目に見えない強制力が働いているからでしょうか。否、それはいまだに私たち現代人の奥底に、例外なく潜む「畏れ」があるからでしょうか。
現代社会には、多様な価値観を持ったさまざまな人間が生きているように見えますが、実際には、一人ひとりは実に狭い世界を生きています。それは同業者の世界であったり、学校という閉ざざれた世界であったり、同じ年齢の子どもを持つ親の世界であったりして、その人間関係のなかでは、実に些細な違いが大きな違いに見えて、互いに冷酷に評価しあい、その世界の中では、安らぐことができません。それに対して、以前はしがらみの典型であった地元での神社の行事での付き合いが、現代では、日常生活の固定されたしがらみから離れて、関係を結ぶことができる機会になってきているということがあります。
ところが、お寺ということになると、少し窮屈な感じがするかもしれません。なぜなら「この宗旨では、こうでなければならない」という「正しさの押し付け」が感じられ、それは現代人の「そうでなければ捨てられる」という「畏れ」の心には、耐えられないということがあるからでしょう。
摂取して捨てないのが「仏」であり、穢れや欠点を嫌い捨てるのが日本の神様であったのが、逆に見えてしまうのは、もちろん、お寺にも責任があります。と同時に、「私」が求めているものが「安らぎ」と「癒し」にとどまるものであって、求めている「私」そのものが、自分を脅かす敵としか世界全体を見ることができない者であり、そんな自分自身に苦しめられているということが見えないということが根本にあるからです。
仏はその「私」の正体を一点の曇りもなく見抜き、あらゆる「畏れ」から解放し、「世界を引き受けて立て」と、今呼びかけています。
『真宗の生活 2003年 9月』【無畏】「生活の中の神仏」