2003(平成15)年 真宗の生活 11月 【報恩講】
<いのちをつなぐもの>
報恩講は親鸞聖人のご法事を勤めることです。ですから、報恩講を各家での行事に例えれば、亡くなった方の法事を勤めるということになるかと思います。その報恩講を勤める意味について、『御文』には「すみやかに本願真実の他力信心をとりて」(『御文』・聖典806頁)と、しるされてあります。
報恩講を勤めるのはこのように「他力信心をとる」ということですが、それは同じく『御文』にある「わがこころのわろき迷信をひるがえ」すということにつきるわけです。「わろき迷心」に気づくためには、そうではない真実の言葉に出会う以外ありません。
その真実の言葉に出会う、それこそが報恩講を勤める、そして各家での年回法事を勤められる第一義の意味であったのです。
親鸞聖人の教えに出会った方がこんな詩を詠んでおられます。
「正体暴露」 浅田正作
年とって 面倒なもんに なったというが
面倒なもんが 年とったがやわい
ところで、現在もご法事は勤められていますが、それが報恩講、つまり、「すみやかに本願真実の他力信心をとりて」という願いを持った仏事として勤まっているでしょうか。勤める僧侶も、勤めてくださっているご門徒も、今あらためて、その願いについて確かめねばならない時にきているように思います。
つまり、法事が仏事になっていないならば、それは真実の目覚めをよそにした呪術に堕してしまっているということだからです。このことは例えば葬式仏教というような批判となって、現状の法事のあり方に疑問が投げかけられていることはご承知のとおりであります。
勤める者にとって、法事がどういう意味を持っているのか、形式をととのえても、あらためてその中身を問うということがないままになっているのではないでしようか。親戚や隣人に対する義理、これも大事なことですが、それだけなら、勤める者にとってただ疲れるだけで、法事そのものは第二義でしかないことになります。勤める私にとっての第一義は何か、あるいは、法事から問われていることは何かと問うこと、それこそが法事を勤めるという意味なのでしょう。
法事・報恩講が今も勤められるのは、こうして、何よりも、いのちをいただいてきた意味に目覚めるため、真実の言葉に出会っていけと、先祖が「命日」を残していってくださったということでありましょう。
『真宗の生活 2003年 11月』【報恩講】「いのちをつなぐもの」