新別院【形から心へ-願心荘厳-】

2014年12月3日・4日に厳修された広島別院明信院再建後初の報恩講では、1944年以来、実に70年ぶりに、念願であった登高座作法や御伝鈔拝読といった伝統的な儀式が執行されました。

この報恩講の講師は、橋本真能登教区駐在教導(前山陽教区駐在教導)です。講師から「ご縁いただいた広島別院の再建後初の報恩講が勤められたこと、そして、その場に大切なお役をいただいたことを大変うれしく、有難く思う。場に集った人が教えに出遇っていくことを願い、その人々が命終わってもその建物、形が残る限りそこに触れていく人々に大きな勇気を与えてくれる。真宗の教えでは、願いが形になったことを願心荘厳という言葉で表現される。縁あって形にふれた私たちは、願いをいただいていくことができる。具現化した荘厳にふれ、形から心を教えられるということが何より大切である」と語られました。

【先人の志を受け継いで】

1945(昭和20)年、原子爆弾投下により、広島市内は一瞬にして焼け野原になりました。別院も全壊焼失しましたが、先人が聞法の場の必要性を鑑み、小さな木造の本堂を建てられました。「先人が残したものをなんとか形に残し次世代に残していく」という願いの元、実に63年間にわたり守り続けられたのです。

【悲しみを共有して】

前別院は、内陣が手狭で、余間や後門もなく、儀式を執行するには随分苦労がありました。何せ戦後の困難の中、再建を果たされた別院です。復興するだけで、相当なご苦労だったはずです。そのような時間の歴史や重みを持つ別院も、63年の月日を経て老朽化が進みました。今回、宗祖親鸞聖人750回御遠忌を機縁とし、中国地方の真宗大谷派の教化拠点として再建する運びとなりました。

新たに非核非戦の願いを発信していく拠点として、先人の志を引き継いだまま、伝統の歩みが一歩進み、新たに始まったのです。

【今しか聞けないこと、現在だから聞けること】

広島別院の責任役員も勤められるご門徒の升岡 博さんは、戦争の記憶を風化させないために、語り部としてもご尽力されています。語り部の方は、80歳でやめる方が多く、戦争を経験された多くの方がお亡くなりになられました。御年84歳になる升岡さんは「語り部を始めて6ヵ月経つが、思い出すことも辛い記憶である。しかし、自ら体験された方がどんどん少なくなり、話す人がいなくなる」との思いで語り部を担われました。

広島別院の教化施策として、教区教化委員会と連携をとりながら、別院を会場とした平和学習ツアーの拠点となることや、真宗大谷派の非核非戦研修の実施を視野に入れた活動を目指しています。升岡さんを始め語り部のご門徒から、今しか聞けないこと、現在だから聞けることはたくさんあります。

【別院でお会いしましょう~離郷門徒との縁をつなぐ場へ~】

広島別院の教化施策の願いとしてもう一つ、離郷門徒の会所とすることがあります。

地元を離れて市内に転居された大谷派門徒の方々は数多くおられます。そして離郷門徒の方はそれぞれ故郷にお寺があります。広島別院の教化委員会のお一人は、所属寺は遠くてお参りに行くことが難しいこともあるかもしれません。教えと縁が切れることのないよう、所属寺の住職も別院に足を運び一緒に仏法にお遇いしましょうという取り組みを進めます。現在は別院の催事の際に、案内を出すことに留まっていますが、今後はつどい等の催しでお会いし、共に仏法に遇う場を作っていきたいと話されました。

【新たなる一歩を】

広島別院は、「人知の闇」である戦争と原爆によって、先達が守ってきた大切な本堂を失いました。しかし、法灯を守りたいという地域の方々の願いは、戦後僅か6年の資材も限られる厳しい状況下で本堂を再建されました。そして、戦後70年の時を経てもなお、広島別院を護持されてきた方々の願いは脈々と受け継がれ、ついに悲願であった伝統的な儀式形式での報恩講を厳修されるまでに至ったのです。

今、広島別院は、その姿をして「信に死し願に生き」て来られた方々の伝統を、次世代を担う方々や広島に住んでおられる方々へと受け継ぎ、まさに「連続無窮」なる関係を築く聞法の道場として、新たなる一歩を踏み出しました。

【山陽教区Webサイト】http://www.sanyo-kyoku.jp/
【広島別院Webサイト】http://hiroshimabetsuin.com/