ありのままに生きる
<ハンセン病関西退所者原告団いちょうの会 宮原 正吉(みやら せいきち)

二〇一四年九月十一日から十二日にかけて、「二〇一四年度真宗大谷派ハンセン病問題に関する懇談会総会」が開催されました。総会における宮良正吉さんの講義を抄録いたします。

私のハンセン病体験

私は一九四五年七月に沖縄の石垣島で生まれました。終戦時の貧しいときですから衛生状態も栄養状態も悪く、一才か二才の頃にハンセン病に感染したと思います。小学校三年頃から顔・手足・尻に斑紋ができて、普通の皮膚病と思っていました。どの病院へ行ってもいい薬がなく、症状はひどくなっていきました。四年生のときに身体検査で分かり、担任の先生から保健所を通じて両親に連絡があり、私を入所させたという経緯があります。母は私に「いい病院が沖縄の本島の方にあるから、診てきてもらいなさい」とだけ言いました。当然、私は家に帰れると思っていたのですが、実際には家に帰ることができませんでした。母は島を出る前の晩は私を抱いてずっと泣いていました。
沖縄本島の愛楽園には兄と一緒にいきました。門構えも大きくて病院というよりも収容所という感じでした。検査の途中で、兄は真っ赤な目をして「帰るよ」と一言そういって帰っていきました。私も家に帰れると思っていたのに引き止められて、一週間は泣いていました。名前を園名に変えるように言われましたが、違った名前で呼ばれることが子どもなりに嫌で断りました。ハンセン病が社会から酷く差別されていることを当時はまだ知りませんでした。今、振り返ってみると本名で通してよかったと思っております。
入所時、園には義足をはいている方や指のない方が多く、戦争時に園長命令で防空壕を二十ヵ所も、患者自身で掘らされたことが原因であると聞きました。「若い元気な人は全員防空壕掘りをしたんだ」「だから指がこんなに短くなって、足も、義足をはかざるをえないんだ」と寮母さんが話をしてくれました。すでにプロミン治療(静脈注射)が行われていました。記憶が間違いなければ、二週連続注射をして、あとの一週間は休むという繰り返しで治療していた気がします。だから今でも両腕に注射の痕が残っています。
当時は社会復帰しても仕事に就くために非常に苦労しました。私は幸いにも知人に、大阪の印刷会社を紹介してもらって、三十七年間働きました。私は勤めて一ヵ月でいきなり夜勤に入りました。身体に悪いと思ったけど、「あいつは仕事できへんな」と言われることが一番嫌で、同じ社会人として負けたくないと頑張りました。しかし、現実は頑張れば頑張るほど頼りにされ、困ることもありました。私の先輩などは、誠実な仕事ぶりで会社に認められ、営業へまわされましたが、お客さんとの付き合いで深夜に帰ることもあって、無理をして身体を痛めてしまい、社会復帰して二~三年で、療養所へ帰っています。

ありのままに生きる

一九七〇年に結婚するときに悩み悩んで、妻に打ち明けたんです。彼女の反応は「それは悩むことなの?」という感じでした。全然相手にしてくれなかった。私が再発したらまた入所しないといけない。「子どもができたら、場合によっては一人だけで育てなあかん」と話したら「そのときに考えたらいいんちゃうん」と言われて、悩んでいた自分があほらしくなって、逆にほっとしましたね。
一九七三年頃、親友の結婚式に行って肝を抜かれたのが、ハンセン病回復者であることを堂々と名乗って結婚式を挙げていたんですね。それまで自分が回復者であることを隠してきましたが、私もハンセン病問題と正面から向き合って生きることを考えるようになりました。昔の友人とも一緒に付き合えるようになったのが、二〇〇一年のハンセン病国賠訴訟の勝訴以来です。
娘には、二〇〇四年の「ハンセン病問題に関する検証会議」で証言をしたときに、伝えました。「君たちの結婚を心配して、今までハンセン病回復者であることを言えなかった」と言ったときに「お父さんの病気を理由に結婚断る人は、こちらからお断りや!結婚は自分が決めるんやから。心配せんでいいで!」と言ってくれたので有難かったですね。
私は社会復帰した後、ハンセン病問題とは向き合わず忘れようとして過ごしてきました。
二〇〇九年にカミングアウトしました。その後、たくさんの方々と知り合いになれて、こんな新しい人生が歩めるなんて想像もしていませんでした。「ありのままに生きる」ことが、偏見・差別の解消につながればと、今そういう思いで活動しています。
今後、「偏見差別解消への取り組み」と「退所者・非入所者が地域で安心して生活できる社会」にすることが重点課題です。
ハンセン病問題に取り組む二つの国会議員連盟は、療養所退所者の遺族に対する経済支援策を盛り込んだ法案をまとめ、今国会中に議員提案することで一致しました。しかし、非入所者の遺族への経済支援は残されています。(二〇一四年十一月十九日、参議会本会議で成立)
二〇一四年四月現在、過去五年間での退所者給与金受給者の療養所への再入所者数は、全国で四十四人です。介護サービスが必要になった時、病歴を明かしても安心できる環境が整ってないため、再び入所するしかない状況に追い込まれていると思われます。回復者が、安心して医療や福祉サービスを受けられる地域社会の環境づくりを早急に構築していくことが重要です。病院も福祉施設も地域で共に暮らす住民も、ハンセン病であったことを理由に差別しないといえる街にすることが大切です。
(文責・ハンセン懇広報部会)

《ことば》
偏見による差別解消は回復者自らが訴える事が大切なのだ
宮良正吉

昨年九月十一日、真宗大谷派ハンセン病問題に関する懇談会総会に参加し、退所者の宮良正吉さんからお話を聞きました。
社会復帰後の生活は偏見と差別を怖れてハンセン病であった事を隠していたこと。家族や友人へ事実を語っていく中で、「偏見による差別解消はハンセン病回復者自らが訴える事が大切なのだ」との力強いお話はとても印象に残りました。
それは、「偏見による差別解消」に共感する私と「偏見による差別」を生み出す社会に生活している私に悶々とした気持ちがあるからです。人間として生命を賜ったものが、都合によって「国」という枠を作り、その中で人間を「肯定」し、「排除」する生活を生み出し、今も身近なところで偏見による差別問題があると思います。それは、私自身の内にある問題であり、悲しみの声に出会えなければ気づくこともできない私なのだと思いました。
今後も、ハンセン病により深い悲しみを体験された人に出会い、お互いが偏見差別を超える出会いをしたいと思いました。
(ハンセン懇第四連絡会委員・稲垣洋信)

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2015年2月号より