外島保養院の歴史と、
そこに生きた人の声に動かされて

<解放運動推進本部本部要員 近藤恵美子>

  「まさに川の中、そして取り巻く塀の中、池のほとりに外島保養院はあった。人々はいつも目の高さに土手と、板塀を見て暮らしていた。」
(邑久光明園入所者自治会『風と海のなか』より)

 

外島保養院の足跡

 かつて大阪には公立のハンセン病療養所「保養院」がありました。一九〇七年公布の「癩予防ニ関スル件」にもとづき、一九〇九年、二府十県(大阪、京都、兵庫、奈良、滋賀、和歌山、三重、岐阜、福井、石川、富山、鳥取)の連合立療養所として、現在の大阪市西淀川区中島二丁目付近に開設されました。
 保養院が建てられた場所は、大阪湾と神崎川に面し、海抜ゼロメートル地帯。記録によると、堤防がなければ四方から水が流れ込むほどの低地で、常に水害の危険にさらされていました。さらに、飲み水を確保しようと井戸を掘っても出てくるのは塩水という、療養所としては最悪の環境の中で生活が営まれていました。移転計画が持ち上がりましたが、移転予定先の住民の猛烈な反対運動が起こり、頓挫しています。
 
 一九三四年九月二十一日、近畿一円を襲った室戸台風で施設は壊滅し、入所者一七三名を含む職員やその家族など一九六名もの方が亡くなり、ハンセン病史上最大の悲劇と言われる大惨事となりました。被害を免れた四一六名の入所者は、分散委託という形で全国六つの療養所への入所を余儀なくされました。各地の療養所にそれぞれが向かう日のことが、次のように記されています。
  「みんな涙をもって別れを惜しんだ。見送る者もやがてここを去って他所へ行く。果たして再び会う日があるかどうか、それはだれにも分からなかった。別れはつらかった。しかし今はこれより外、生きてゆく道はなかった。」    (『風と海のなか』より)
 
室戸台風で全壊した外島保養院 その後、大阪での再建を目指しましたが反対運動で実現せず、室戸台風からおよそ四年後、岡山県長島の地に「光明園」として移設され、外島保養院は、大阪での二十五年の歴史に幕を降ろしました。現在、保養院があった堤防下には、邑久光明園入所者自治会によって「外島保養院記念碑」が建てられ、その歴史を静かに伝えています。

 

外島の灯をつなぐ

 毎年九月には、記念碑の前で室戸台風の犠牲になった方々の法要が行われています。しかし、時の流れとともに当時を知る人が少なくなる中で、大阪に療養所があったことも、また二府十県が外島保養院に多くの患者の方々を送り込んできたことも忘れ去られようとしているのが現状です。
 室戸台風から八十年を迎えた去年九月、関西でハンセン病問題に取り組んできた人たちや、回復者、退所者の方が中心になり「外島保養院の歴史をのこす会」が立ち上げられました。外島保養院の歴史とそこに生きた人たちの姿と声を記憶に刻むことをとおして、ハンセン病問題の全面解決と再発防止に資するための取り組みを目的として設立されました。設立にあたり、共同代表の一人である邑久光明園入所者自治会長の氏は「いまだハンセン病への偏見や差別は残っている。歴史を学ぶだけでなく、啓発活動につなげていってほしい」と話されました。
 十一月下旬、あらためて外島保養院の跡地を訪れてみると、まだ暑さが厳しい九月の法要の時期とは違い、風が冷たく人の行き来もほとんどありません。普段、記念碑はフェンスに囲まれています。後ろには堤防があり、その場所から川の向こうにある尼崎市の街の様子をうかがい知ることはできません。一九九六年の「らい予防法」廃止から十九年経とうとする今なお、「ハンセン病への偏見や差別は残っている」と語られる現実が、現在も対岸の街をのぞむことができない状況と、そこで生きた人々のすがたに重なって私の前に立ち現われました。
 
外島保養院記念碑1996年の「らい予防法」廃止を
期に建てられた※「外島保養院の歴史をのこす会」
では、今後、二府十県の行政に呼びかけ、当時の
記録の整理や記憶をのこす取り組みを進めていき
ます。お問い合せは、06─7506─9424
(ハンセン病回復者支援センター)まで。
 ハンセン病史上最大の悲劇と言われる室戸台風の被害は、突き詰めれば、自分たちの地域に療養所を作らせなかったこと、患者の方々を外島保養院に強制的に送り込んだこと、そしてその家族を偏見・差別の眼差しにさらしてきたこと、立地条件の悪い場所にしか療養所を作らせず再建すら許さなかった、私たち市民一人ひとりが「無らい県運動」を進めてきた結果、起こった悲劇と言えるのではないでしょうか。いま、歴史という枠を超えて、そこに生きてきた人びとから、私たちの責任が問われているのです。
 外島保養院の歴史に思いを馳せるとき、そこに生きた一人ひとりから、ハンセン病を患った方々やその家族を自分たちの地域から排除してきた責任を自覚し、二度と偏見・差別による被害を起こさないでほしいという、呼びかけの声を感じずにはいられません。
 現在、外島保養院で過ごされた元患者の方は三名。いまこそ、外島の灯をつなぎ、そこに生きた人の声に応えていく取り組みをしていかなければなりません。外島保養院の歴史を知ることは、歴史を学ぶということにとどまらず、私自身のこれまで、そしてこれからの歩みがどこまでも問われることであり、ハンセン病問題解決に取り組む姿勢と、責任の自覚、行動に対して厳しい眼差しが注がれることなのだと思います。
 

《ことば》
名前を奪われてきた人から、名前を呼んでもらった。

 「本間さん、お疲れ様でした。お世話になりました。これどうぞ」。入所者の方に手渡されたのはよく冷えた缶ビールだった。「ありがとうございます」。思わず声がうわずった。松丘保養園で交流を重ねて七年目で初めて名前を呼んでもらえた、そのことがなによりも嬉しかったからだ。一昨年に東京で行われた第九回全国交流集会の帰りの新幹線での会話だ。
 ある時、その出来事をハンセン懇の人に話した。「大事な交流をしたね。名前を奪われてきた人から、名前を呼んでもらったんだ」。ドキリとする一言だった。名前を呼んでもらうことが当たり前の生活をしてきた私は、名前を奪われるということを考えたことがあっただろうか。
 『千と千尋の神隠し』というアニメの最後の方に主人公の少女が白龍に乗っている場面がある。「あなたの本当の名前はニギハヤミコハクヌシ」。主人公の少女が告げると白龍の鱗はすべてとれて少年の姿になる。劇中でも現実でも、名前は単なる記号ではない、その人の存在そのものである。入所者の言葉に耳を澄まし、名前を奪われた者も奪った者も共に解放されていく、そんな交流をこれからも続けたい。
(ハンセン懇広報部会・本間義敦)

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2015年1月号より