「真宗大谷派ハンセン病問題に関する
懇談会(ハンセン懇)」が設置された願いに聞く

<山陽教区光明寺住職 玉光順正>

─二〇一四年九月十一日から十二日にかけて、「真宗大谷派ハンセン病問題に関する懇談会(ハンセン懇)総会」が開催され、懇談会設置の願いと現在の課題について玉光順正氏より講義がありました。その抄録をお伝えし、有縁の方々と願いを共有したいと思います。

 

自らを問う場としてのハンセン懇

 はじめに、私個人のことをお話しいたします。神戸に福地幸造という解放教育に尽力された高校の先生がおられました。最後の仕事として全国のハンセン病療養所をまわっておられました。福地幸造さんが『解放教育』(一七四号「特集・転換期に直面するらい園の内外」)で「遅すぎたにしろ、気がついた時点から、「実行上」のこととして、動くのが「仁義」だろうと思う」と書いておられました。その言葉に促されて、福地さんが編集された『解放教育』に執筆していた方々に会いたいと思いながら療養所を訪問したわけです。
 私は療養所で、差別の問題、「らい予防法」、天皇制の問題、そして隔離や慰問布教が問題だという話を最初からしました。今も覚えていますが、「私たちは法話が聞きたいのです。『らい』の話はもういいんです」と入所者の方から言われたことがあります。また、「自分は『らい』という宣告をされてから、『らい』ということを考えない日はない」とも言われました。私が「らい予防法」の話ばかりするものですから、それを考えない日はないのに、「『らい』の話はもういいんです。法話を聞きたいんです」と言われたのです。
 私たちが訪問する前から、療養所に行っておられた先輩の方々は、隔離を前提とした法話をされていたのではないでしょうか。「慰問布教」という言葉がありますが、療養所に入っておられる方々を慰めるために、そこに行ってお説教をする。暁烏敏さんの言葉に「皆さんが静かにここにをらるることがそのまま沢山の人を助けることになり、国家のためになります。だから皆さんが病気と戦うてそれを超越してゆかれることは、兵隊さんが戦場に働いてをるのと変らぬ報国尽忠のつとめを果すことになるのであります。」(「入園者の行くべき道」『愛生』一九三四年通巻六号 エ文ママ)とあります。この言葉が慰問布教の内容を語っています。慰問布教とは、慰めると同時にそこでじっとしていることが、そのままたくさんの人を助けることになるという、その当時の国家の姿勢に随順し、国策に協力するかたちでなされた布教でもあります。
 そのような中で、このハンセン懇のもととなる懇談会を作ったわけです。その頃、らい予防法の廃止ということが具体的になってきたということもあります。
 大谷派にはかつて大谷派光明会(一九三一年六月設立)というものがありました。これはハンセン病に関する国策に協力し、推進していく会でした。その大谷派光明会の歴史を終わらせるということを意識して、ハンセン懇を立ち上げました。大谷派光明会というのは、まさに上からの組織です。大谷派光明会、そして慰問布教の歴史を引き受け、幕を引くためには、別のかたちのものが必要だと考えていました。立ち上げ当初のハンセン懇は、色々なかたちで療養所に訪問しておられる人たちや、ハンセン病のことを考え始めた人たちが集まる場でした。具体的に自分の課題を持った人たちが語り合い、聞き合う場が生まれたのです。
 そして、一九九六年に「らい予防法」は廃止されたのですが、療養所は全く変わらなかった。そこではじまったのが一九九八年の「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」です。そういうこととの関わりのなかで、少しずつ私たちの側も変わっていきました。
 そのときに私が強調したのは、当然のことですが、「私たちは国賠訴訟の原告ではなく被告である」と。つまり、療養所の人たち、立ち上がった人たちから私たちは問われている。差別し、隔離するということをしてきたのであって、国策とか、隔離政策を原告の人たちと一緒に批判するのではない。いわば悲泣しながら支援してきたのです。つまり、自分たちを問う場所としてハンセン懇はあり続けてきているということです。
 

みんなになるな、ひとりになれ

 もう一つ、大谷派としては小笠原登さんという医師についても考えてきています。小笠原さんは大谷派の寺の出身であることは、当時の宗門でも知られていたことです。その小笠原さんは国策としての隔離政策に反対されました。彼は一九四一年、開戦直前に開かれた日本らい学会で袋だたきにされました。そのときに、大谷派の中には一人も小笠原さんのそばに立つ人はいませんでした。
 このことは私たちにとって、戦争をするかもしれない国家になりつつある、これからの問題でもあります。これからの時代がどうなるか分からない。そのときに、「みんな」になるのか、それとも「一人」になってもぶれないでいけるのかという問題です。ハンセン懇として各教区から出てきて、「みんな」に加わるから間違わないということはない。むしろ、「みんな」で間違うということもあります。そういうことも含めて、これからの課題として特に大事にしていってほしいと思います。
 ハンセン病と一番縁の深いのは宗教界です。ある会議で「南無阿弥陀仏を仏壇の中に閉じ込めている」という話がありました。宗教は心の中の問題だと思われています。そんな中で、このハンセン懇は大事な意味を持っています。「同朋会運動は純粋なる信仰運動である」という言葉があります。「純粋なる信仰運動」は市民運動になる。そういうものでないと純粋とはいえないと私は思います。ですから、ハンセン懇での活動というものが、市民運動というような広がりが持てることを願うわけです。
 もう一つ、寺の坊さんだけでなく門徒の人たちと一緒に運動することを早急に考えることが必要だと思います。それができなければ、自己満足に陥ったり、また同じ間違いを繰り返し、私たちの殻を破ることはできないと思います。
(文責─ハンセン懇広報部会)
 

《ことば》
「別に隠しているわけではないんですけどね」

 今年、ハンセン病問題の研修会に参加した時のこと。講師は三年前にも私の地元で講演を聴かせてもらった入所者の方だった。三年前は本名だったが今回は法名での講演だった。
 この三年間で法名を名告るような出来事があったのかと思い、質問したところ、言いづらそうにしながらも答えてくださった。
 「あまり[本名]を言わないようにという控えめな気持ちもあるわけですよね。別に隠しているわけではないんですけどね」。
 とんでもないことを言わせてしまったと思った。生まれ故郷での研修会と事前に知っていた。大勢の前でわざわざ言いたくないことを言わせてしまった。故郷で本名を名告ることの意味に思いが至らなかった。どういう思いでその場にいて、話をされていたのだろうか。正直な所、恥をかいたと思う気持ちが先に立つ自分がいる。その自分も恥ずかしく、今も考えさせられている。
 来年療養所を訪問した時に、もう一度会ってお話したい。
(ハンセン懇広報部会・飯貝宗淳)

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2014年12月号より