いのちの(あかし)を見極める
─重監房資料館設立の意義─

<新潟大学大学院保健学研究科教授 宮坂 道夫>

重監房資料館は、二〇一四年四月三十日に開館して以来、年末までの約八ヵ月間に約八千人の来館者がありました。今のところ草津温泉からバスなどの運行もなく、交通の便が悪いのですが、それでもこれだけ多くの人が足を運ばれたことに感慨を禁じ得ません。
重監房とは、ハンセン病療養所栗生楽泉園の片隅に設けられた患者に厳しい懲罰を与えるための監禁所でした。暖房設備もなく、光もわずかにしか入らない暗闇の空間で、冬期を中心に多数の人たちが命を失いました。患者の治療の場所であるはずの療養所に、患者を罰し死なせる場所があったわけです。
当時(重監房の設置は一九三八年でした)の日本のハンセン病専門医たちは、療養所の風紀を守るために、そのような施設を作ったのでした。患者たちが犯罪まがいの行為をしても一般の刑務所からは収監を拒まれるのだから、療養所の中に懲罰施設を作るのは致し方がないのだ、というのがその理屈でした。あたかも筋が通っているかのようですが、患者に裁判を受けさせずに、医師の判断で懲罰が科されることになります。裁判を受ける権利という基本的な人権が守られないことの重大さに、当時の人々は気づかなかったのでしょう。
戦後、重監房は新しい憲法の下で人権問題として国会で取り上げられ、一九五三年に壊されました。そこに至るまでには、楽泉園の患者たちの命がけの闘争がありました。一九四二年、患者たちは重監房の破壊を計画します。焼打ち用の焚木や掛矢を用意する一方で、駆けつけてくるはずの警察官に実状を説明して理解を求める準備もしていました。実行直前になって、計画が園側に漏れていることが発覚し、取りやめになりましたが、のちに「一七年事件」と名づけられたこの一件は、やがて大きく展開されていく患者運動の先駆けになりました。基本的人権の歴史という視点で振り返ったとき、太平洋戦争のさなかにこのような闘争が試みられたことは、非常に重要な、誇るべき史実だと思われます。
しかし、重監房がなくなった後も、日本のハンセン病政策は患者の人権を大きく踏みにじるものであり続けました。特効薬が利用できるようになり、隔離の正当性が失われても、強制隔離政策は終わりませんでした。ハンセン病が完治していながら故郷に帰れず、療養所に暮らす人たちは、「元患者」と呼ばれる存在になりました。彼らは理不尽な政策の中で苦闘しながら、国の政策の誤りを訴え続けました。それがようやく聞き届けられたのが、一九九六年のらい予防法の廃止と、二〇〇一年のハンセン病違憲国家賠償請求訴訟・熊本地裁判決でした。一七年事件から数えれば、五十年以上の歳月が流れていました。この年月は、人の一生で考えれば、途方もなく長いものです。これは、私たちが彼らの声に真摯に耳を傾けることをしなかった五十年と言うべきでしょう。
私がハンセン病問題に多少なりとも向き合うようになったのも、熊本地裁判決がきっかけでした。栗生楽泉園の入所者だった雄二さんに大学で講義をしてもらおうと考え、初めてハンセン病療養所を訪れたのでした。その時に、谺さんの口から「重監房を復元したい」という言葉を聞き、これこそ自分が少しは手伝える課題だと直感し、「重監房の復元を求める会」を立ち上げて署名集めを始めました。しかし、そこでいつも考えさせられたのは「なぜ重監房を復元すべきなのか」という問いでした。アウシュヴィッツ強制収容所などを訪れて、「負の遺産」を保存したり復元したりすることの意味を考えました。その一方で、重監房を復元したとして、残酷さやグロテスクさのような側面ばかりに関心が向いてしまうことも心配しました。しかしながら、多くの人が署名に応じ、重監房問題を一つの入り口としてハンセン病問題に興味を向けるのだということも実感しました。
署名活動を始めてから十年余の歳月が流れ、重監房資料館が完成し、その中に重監房の一部が原寸大で再現されました。実際の重監房跡地も保存されることになり、発掘調査が行われ、当時の様子を伝える数々の物品や遺品が発見されました。資料館の開館を見届けるかのように、二〇一四年五月十一日(奇しくも熊本判決の日です)に、谺さんが亡くなりました。ちょうど草津でハンセン病市民学会が「いのちのを見極める」というテーマで行われているさなかでした。このテーマも、谺さんの発案が元になっていました。いまあらためて考えると、このテーマにこそ、重監房資料館設立の意義があるように思えます。
重監房資料館を訪れる人は、重監房で行われた過酷な出来事を知るとともに、かつて患者だった人たちが過酷な環境でいつも前を向いて生きようと苦闘し続けた、文字通りの「いのちの証」を感じることができるのではないでしょうか。あるいはまた、その「いのちの証」は、彼らの声に真摯に耳を傾けることをしなかった私たち自身の姿を見せる映し鏡のようなものかもしれません。

《ことば》
我々は本当にどろどろの田んぼのなかに生活しながら
蓮の花じゃありませんけど
どろどろの中に生きておったわけでございますから
そして結局蓮の花の様にきれいに花が咲くわけでございますから
実は結びませんけど
実はみなさんたちに結んでいただきたいというふうに
思っているわけでございます。
藤田 三四郎

ハンセン病療養所栗生楽泉園の藤田三四郎さんからお聞きした言葉です。
私の暮らしている高田教区(新潟県)にはハンセン病の療養所がありません。
「ハンセン病」がどの様な病気で、当時どの様な政策がとられていたのか全くと言っていいほど知りませんでした。
というよりは無関心でした。
ハンセン懇委員になり栗生楽泉園、多磨全生園二ヵ所の療養所を訪問しました。
療養所では入所者・元入所者の方々にお話しをお聞きし、交流の中で、隔離政策によって生み出された社会的な差別や偏見が今もなお根強く残っていることを知りました。
当事者の声を直接聞くことで、「ハンセン病問題」の正しい情報を知り、理解を深めることの大切さをあらためて考えさせられました。
またハンセン病問題をとおして、人間回復という願いが自分に問われているように思います。
(高田教区・堀前裕見)

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2015年5月号より