重監房は、日本のハンセン病隔離政策の象徴
<多磨全生園 入所者自治会会長 佐川 修>

二〇一四年春、栗生楽泉園(群馬県草津町)に重監房資料館が新設されました。佐川修さん(多磨全生園在住)に、重監房での体験と資料館が新設されたことについてお話しをお聞きしました。

 

重監房とは何だったのか

 特別病室と言われたあの重監房、あれはなんだったのか。何故あんなものが作られたのか。国立の各ハンセン病療養所には監禁室と火葬場がありましたけれど、栗生楽泉園には一九三八年にもう一つ重監房が造られました。これはなぜ造られたのか。私は、一九三六年に起きた長島事件がその発端じゃないかと思っています。一九三〇年十一月に国立療養所第一号の長島愛生園が開設されたとき、全生病院院長の光田健輔先生が園長として翌年一月に転任してきました。そのときに全生病院から八十一人が開拓患者として付いていき、途中、名古屋と大阪から加わった四人を含め八十五人が長島に到着し、光田園長のもとで一生懸命に働きました。
 

長島事件の衝撃

 一九三一年という年は、法律第十一号「癩予防ニ関スル件」が、「癩予防法」に改正され、強制隔離・強制収容が徹底的に始まった年です。それで長島愛生園でも定員四百人のところどんどん患者が増え、一九三六年には定員を七百九十人に改めました。そのときには患者は千百人くらいになっているのに、七百九十人分の予算しかない。部屋が足りなくて十二畳半に十人も十一人も入れ、夫婦も六畳に二組をおしこめました。また食事も献立の質が落ち、不満の声が出ました。そのため四人の者がひそかに闘争を計画したのですが、事前に発覚してつかまり、監禁室に入れられました。友人たちが「何とか出してくれ」と職員に頼むのですが、出してくれない。その時に百人くらいの患者が園内の光ヶ丘に集まって恵みの鐘をガンガン叩いて、「自治会制度を認めろ!」「園長は辞めろ!」と要求を掲げて座り込みました。次の日は、六百人くらいが集まって、光田園長や幹部職員と交渉しました。 
 その当時、大島青松園や外島保養院では自治会制度が認められていました。ところが、長島愛生園ではどうしても認めない。職員の中には「認めてやったらどうですか」という人がいたのですが、光田園長は、「とんでもない。それは職員の怠慢だ」とどうしても認めませんでした。その時に天井裏に職員が二人隠れ、盗聴していました。それを見つけて取り押さえ、患者側で捕獲していました。そうしたら光田園長がそれを「離せ」という。でも離さない。すったもんだして結局監房に入れられた四人と交換条件に、職員二人を返したのですが、患者たちは納得できない。次々と作業を放棄し、ハンストまでやりだしました。光田園長は自分と一緒に来た開拓患者の人たちは、自分に絶対服従するだろうと思っていたら、その人たちまでが「あえて恩師に刃向う」との声明書を出して、作業拒否やハンストに入りました。
 光田園長はすぐに特高警察に連絡し、二十七人の警察官が入ってきて鎮圧をしたのですが、いろいろもめて交渉した結果、自治会制度は「自助会」という名目で認められることになりました。それでも光田園長は辞めませんでした。光田園長はこの一連の事件の中で、特に開拓患者までが自分に刃向かったことに大変ショックを受け、これは何とかしなくてはならないと思ったのだと私は強く思います。
 その後、各療養所長による所長会議で患者取締まりについて特別監禁室を設置するということを諮って、「これは是非必要だ」と内務大臣に進言して、極寒の草津の療養所に重監房を設置したのです。
 

重監房は、隔離政策の象徴

 私は、一九四五年三月十日の東京大空襲で被災し、六歳の妹は行方不明、私も防火頭巾や服に火がついて手足を大火傷、顔も下半分が真っ赤になって斑紋が出て多磨全生園に送られました。ところが、「全生園は定員オーバーして部屋がなく、空襲で危ないから草津へ行け」と言われ、三月二十六日に栗生楽泉園へ入りました。十二畳半四人の独身舎四号で、金岡という人が重監房に食事を運んでいました。私は金岡さんに付いて、三回くらい重監房を見に行きました。ある日、突然金岡さんがいなくなりました。逃走したんですね。そしたら、「飯運びをお前やれ」と言われ、私がやることになりました。白馬舎の人が交替でやっていたのですが、嫌な仕事なので、半年以上続いたことはありません。中には一週間で辞めた人もいました。私は一九四五年十月頃から一九四六年四月頃まで、半年余りやっていたのですが、その間に二人が亡くなりました。薄い木の弁当箱に麦飯とたくあん三片か梅干し、または菜っ葉漬が入ったものを岡持に入れ、肩に担いで、朝と昼の二回運びました。冬季は道も凍り、本館前から正門までの坂道はきつかったです。その時収監されていた鈴村さんは、一九四四年に横浜で女性の殺人事件があり、非常警戒態勢が敷かれていたところに、たまたま散歩していて職務質問をされたのです。その時、鈴村さんがハンセン病患者と分かった途端容疑者にされ、草津の重監房に四三〇日も入れられ、亡くなりました。亡くなる少し前、「カラスが迎えに来た、カラスが迎えに来た」と何度も言っていました。収監された全員がろくな取調べや裁判もなく、懲戒検束規定も無視され、百日も二百日も入れられました。わたしは、この特別病室という名の「重監房」は、九十年間も続けてきた日本のハンセン病隔離政策の象徴だと思っています。
 


栗生楽泉園・重監房資料館

 

 雄二さん(ハンセン病違憲国家賠償訴訟・全国原告団協議会会長、二〇一四年五月十一日逝去)の呼びかけのもと「重監房の復元を求める会」を中心に復元運動がはじまりました。「重監房」とは、ハンセン病患者を対象とした懲罰用の建物で、正式名称を「特別病室」といいます。
 栗生楽泉園の重監房資料館は、約十年の歳月を費やし、二〇一四年四月三十日に開館。館内には、発掘調査による出土遺物の展示や、重監房の一部を実寸大で再現したスペース、再現映像などが展示されています。
 ハンセン病問題に関する資料の収集・保存と調査・研究の成果を公開し、人の命の大切さを学び、ハンセン病問題への理解を深め、差別と偏見の解消を目指す活動をしています。
 
【連絡先】
 群馬県吾妻郡草津町草津白根464─1533
(入館無料)
℡ 0279─88─1550
【ホームページ】
http://sjpm.hansen-dis.jp/
【フルオープン期間】(4月26日~11月14日)

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2015年6月号より