国立駿河療養所
駿河真宗講と関わる私たち
<岡崎教区成福寺住職 北條 親善>
資材不足、人手不足の中、満足な食事も取ることができず、山の開墾、施設建物の建設と過酷な患者労働によって駿河療養所は築かれていった。一九四八(昭和二十三)年には患者自治会も生まれ、時を同じくして患者による宗教組織が次々と作られていった。浄土真宗を拠り所とする「真宗講」はもっとも早く、新潟県出身の入所者である本田重一氏が中心になり結成された。自治会の記録には、常念寺の赤松円成師、明浄寺の和光堅正師が早くから訪問していたと記されており、一九五〇(昭和二十五)年五月十八日には絵像本尊が安置された。
結成から六年後の一九五四(昭和二十九)年には礼拝堂が落成する。仏教系、神道系の各宗教団体は礼拝堂で葬儀、集会を行うこととなり、真宗講の本尊も礼拝堂の一角に移動された。礼拝堂の統一本尊として阿弥陀如来木像が安置され、和光堅正師を迎え入仏式を行っている。
療養所内での葬式は患者宗教団体が主となって勤める。真宗講の講員の葬式は、お経の読める患者自らが導師となり勤められた。真宗僧侶の赤松、和光両師の訪問は単発であり、葬儀や定例会などにはつながらなかった。
真宗講の集会形態が大きく変わったのは、沼津市にある真樂寺住職の勧山弘師が訪問するようになってからである。
一九五九(昭和三十四)年、四十歳の勧山師は所属していた沼津ライオンズクラブの要請で、駿河療養所での奉仕事業の必要性について調査に入った。調査の結果、奉仕は不要であるとされたが、熱心な真宗講員の長野県出身の石浦浩氏から月例の法話の講師を依頼された。このことをきっかけに、二ヵ月に一度、真宗講の集会は、真宗僧侶が法話する形態をとるようになっていった。あわせて、葬儀の導師も勧山師が勤めるようになる。
勧山師は大谷派の宗議会議員を務めたこともあり、真宗講の報恩講に岡崎教区の所長を招いたり、宗祖親鸞聖人御誕生八百年慶讃法要に真宗講の人たちを招待したりした。また、一九七八(昭和五十三)年の真宗講報恩講では、沼津中央仏教会婦人会を通して、三具足、打敷、卓を寄付している。さらに自身が多忙なときは、近隣の真宗寺院の住職に療養所の葬儀や法事を頼み、療養所への交流を促した。
しかし、一九七二(昭和四十七)年に本田氏が亡くなり、さらに一九八四(昭和五十九)年には石浦氏も亡くなられてからは、勧山師との関係も途絶え、真宗講は事実上休会となり、活動は停止したのである。
一九九六年に「らい予防法」が廃止され、大谷派はハンセン病に関わる真宗大谷派の謝罪声明を表明し、各療養所への交流が宗派をあげての取り組みになった。しかし、駿河療養所では真宗講が休会になっていたため、まず自治会を通して現地学習会から始めた。岡崎教区の同和協議会研修を始まりとして、宗議会議員研修を療養所内で頻繁に行った。当時の自治会副会長の西村時夫氏がかつての真宗講員に声をかけ、礼拝堂にはたくさんの真宗講門徒が集まった。一九九九年九月三十日の研修には、謝罪声明を出した当時の能邨英士宗務総長も一緒に座談に参加していた。その折りに、富山県出身の松田明雄氏が「私は目が見えない。でも、録音テープで説教を聞く。テレフォン法話でお話を聞く。同じ話を何度も聞く。でも、直接ナマの声で説教を聞きたい。皆さんどうか直接お話を聞かせてください」と訴えた。私は、この一言に大谷派が謝罪をしなければならなかった意味が込められているように思った。その声に対し宗派として真宗講再興に全面的に協力したいと表明し、岡崎教区もそのために尽力した。
そして、同年十一月二十四日、小雨が降るにもかかわらず、十七人の真宗講門徒が礼拝堂に参集し、真宗僧侶五人が加わって、療養所での報恩講が厳修された。導師を務めた岡崎教務所長は、「京都の御影堂におられる御同朋、御同行と時を同じくして報恩講を迎えられるのも御縁の深いことです」と語った。
長らく休会をしていた真宗講を再興するにはとまどいがあった。入所者が高齢になり、定例集会をしても集まってくれるかとの不安があったからである。しかし、報恩講の後、集まった人々から「松井さん、代表をやってくれ」「松井さんが代表だ」との声があがり、真宗講の代表に岐阜県出身の松井勇夫氏が選ばれた。真宗講の再興の瞬間だった。
真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2018年3月号より