息づく仏教
(新野 和暢 教学研究所嘱託研究員)
人民(にんみん)安楽にして、兵戈(ひょうか)戦息(せんそく)す、疾疫(しつやく)行ぜざるなり。(聖典三九五頁)
親鸞聖人が『教行信証』において、『正法念経』から引かれた一節です。いのちを尊ぶ、平和の教えである仏教の世界観を象徴する教えとして、広く知られていても良さそうな言葉です。しかし、そうではなかったように見えました。恥ずかしい話ですが、私自身は最近になって知りました。
仏教の見方を確認しますと、『ダンマパダ』に繰り返し説かれている「殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ」という仏陀の言葉が良く知られています。これは、戦後七十年の節目に大谷派の宗会において可決された「非戦決議2015」(二〇一五年六月)でも引用されています。仏陀の言葉を如来の悲願と受け取って「非戦の誓い」が表明されたのです。この他にも、不殺生戒や『仏説観無量寿経』の「慈心不殺」(聖典九四頁)、そして、『仏説無量寿経』に説かれる「国豊民安 兵戈無用」(聖典七八頁)の一節などがあります。
「兵戈無用」と「兵戈戦息」に共通するのは、「兵戈」です。戈とは、槍や刀など武器そのものを意味するので、「兵戈」と言った場合は、兵隊が武器を持って整列している状態も含んでいると思われます。先ほどの『仏説無量寿経』は、「国豊かに民安し。兵戈用いることなし」(聖典七八頁)と書き下しされているように、「兵戈」を必要としない平和な世界が仏教の広がりと共にあると説かれています。
では、「兵戈戦息」とはどういう意味なのでしょうか。「息」の意味を辞書で引きますと、人間の営みに欠かせない「呼吸」を指すサンスクリット語のプラーナのように、具体的な状態を表す他に、いくつかの意味を持っています。「息が合う」と言った場合には「気が合う」という意味合いになりますし、消息の「便り」を意味することもあります。そして、息災のように、「やすむ」「やめる」「ほろびる」と表現されるような、「物事の状態が変化し、安らかにする」という意味を含んでいます。以上を踏まえると、「兵戈戦息」の「息」は、「治まる」という意味として捉えることができます。
この「兵戈戦息」を含む一節は、実は「戒」の文脈で語られているため慎重に読まなければなりませんが、人間が兵隊となって、殺人兵器を持って戦場にかり出されるような状態から脱する価値観が提示されていると理解できるのではないでしょうか。
経典にはこのように説かれています。そして、過去も現在も未来も、いつの時代にあっても平和な世の中を求める声は絶えることがありません。それでも、世界は戦争の惨禍に繰り返しさらされています。ここに仏教はどう関わることができるのでしょうか。真実の仏教が広まれば、戦争は治まる方向に向かうのではないでしょうか。社会的実践が叫ばれるようになって久しい現代社会において、そこに真実の仏教が息づいているのかどうか。それを聞き続けるわたしの態度が問われているということだと思います。
(『ともしび』2016年5月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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