念仏の道
(都 真雄 教学研究所助手)

今年の四月一日、真宗本廟(東本願寺)では、阿弥陀堂御修復完了奉告法要が勤められた。
 
その日は一日中、多くの方々が、阿弥陀堂を参拝され、御堂内が御本尊を中心に美しく荘厳されているのを見て、感嘆の声をあげられていた。
 
私は阿弥陀堂に居たが、何人もの方から質問を受けた。参拝者の方々は、様々なことに関心を持たれており、質問も多岐にわたっていた。
 
印象的な質問も幾つかあったが、そのなかで思い出すのは、ある中年の男性の質問だった。その方は「この仏さんはどんな御利益があるんですか?」と尋ねられた。
 
私はその方に、浄土真宗では商売繁盛などのいわゆる現世の御利益を目的とするのではなく、仏道を歩むことを最も大切にしていることをお伝えした。さらに、本願を信じ念仏を申すことの大切さや、現世の御利益を求めることの問題点などについてもお伝えした。
 
そのことを伝えると、喜んでいただけたようだった。しかし、私はあらためて問いを与えられたように感じ、それから少しの間、現世利益について内省した。
 
私は「現世利益和讃」や現生十種の益などの聖教の言葉を思い出していたが、不意に清沢満之先生の『臘扇記』の、
 

「請う勿れ 求める勿れ 汝何の不足かある」(『清沢満之全集』第八巻)

 
という言葉や、
 

「吾人は絶対無限を追求せずして満足し得るものなるや」(同)

 
という、清沢先生の言葉を思い出した。
 
これらの言葉によって清沢先生は、念仏の道を歩むうえで「請うてはなりません。求めてはなりません。あなたに何の不足があるでしょう」と言われており、「私たちは絶対無限を追及しないで満足することができるものなのでしょうか」と問いかけておられる。
 
思えば、清沢先生は、結核を始めとした様々な苦難に遭われている。『臘扇記』を始めとした先生の著作からも、そのような困難な状態であっても、いわゆる現世の御利益を求めることによって、自らの欲求を満たそうとしていない。むしろ欲求せざるをえない自らの思いが破られ、ただひたすらに念仏の道を歩まれていることが窺われる。
 
清沢先生が、ただひたすらに念仏の道を歩まれた理由については、様々に挙げられるが、その一つとして、念仏の道を歩むうえで、慶びや満たされるものがあったのではないか。そして、様々な境遇に甘んずることなく、それを超えて慶びをもって、仏道を歩ませていただける、それが清沢先生にとっての現世の利益だったのではないか。それは今までも朧げに感じていたことではあったが、そのことを想うと、浄土真宗がいわゆる現世の御利益を求めず、必要としないということについて、いつもより頷くことができた。
 
そして、そのことによって私は、念仏の道を歩むことの大切さについて、あらためて教えられたように感じた。それと同時に、気づけば念仏の道の大切さを忘れ、それ以外の何かを求めようとする自らの悲しさを強く感じた。
 
その男性から思いがけず問われることによって、様々なことを気づかせていただくことができた。
 
(『ともしび』2016年6月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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