非僧非俗について
(楠 信生 教学研究所長)
『教行信証』(並びに『歎異抄』)の後序に記された
僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す。予はその一なり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆえに「禿」の字をもって姓とす。(聖典三九八頁)
この「非僧非俗」は、注目される言葉であり、多くの方々がいろいろな角度から了解を述べて下さっています。
基本的な意味としては、次のように言うことができると思います。
「ただ念仏して」の教えによって「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」ということを聞き取ることができた。けれども、それは念仏を諸行の中の一つとして併修してきた旧仏教の側からは、到底容認されないことであった。結果として、官位としての僧の身分を権力的に剥奪されることになったのである。したがって、僧の位を失った客観的事実と、社会体制の中で制度によって承認・保証されただけの僧は、真に僧というにふさわしいものではないという自覚的意味で非僧という。
同時に、その「ただ念仏して」の教えによって、分別の繋縛から解放される出離生死の道が、一切衆生に開かれてあることに確信を得ることができた。その意味では、俗ではない生活が始まっている。それが非俗ということである、と。
このような「僧に非ず俗に非ず」という言明、その「非」という否定の論理の根底には「禿の字をもって姓とす」という悲歎から始まる生活があるのです。
安冨信哉先生の『『唯信鈔』講義』の中の次の言葉が目にとまりました。それは『唯信鈔』の著者安居院聖覚法印が生きた時代の世相と仏教界の事情を述べられたものです。
この大変動のなかで、仏教の説く出離生死の教説は、現実的要求として民衆レヴェルにまで浸透する。深い生死の苦悩を体験した民衆は、生死の彼岸を希求したが、聖道門・旧仏教の難解な学問や高遠な修行は、容易に現実性をもちえなかった。もちろん一部の真摯な僧侶たちが、民衆の宗教的心情に応えるために、祈祷や占術のみならず、慈善や医療などの活動で、さまざまな努力をしたことを看過してはならないが、決定的な救済への道筋を示すには至らなかった。(『『唯信鈔』講義』大法輪閣、二〇〇七年、四一~四二頁)
聖道門・旧仏教の問題点を指摘されたこの文章を読んだとき、現代の私たちの状況をそのまま指摘されているように感じました。殊に「決定的な救済への道筋を示すには至らなかった」というところです。その理由としては、悲歎のこころの欠如ということを思うのです。確かに、親鸞聖人の明らかにしてくださった念仏の教えによって「救済への道筋」は、つけていただいたわけです。しかしその教えも、それを聞く一人ひとりが自ら念仏の機として、末法五濁の有情であるという悲歎を抜きに救済を考えるとき、自ずと道筋も不明瞭なものとなるのです。
先に「非僧非俗」の非の論理の根拠として悲歎ということを申し上げました。非の論理は、大乗の重要な思想でありますが、浄土門における非の論理の展開根拠は悲歎にこそあるのではないでしょうか。念仏の教えを聞く時、一分の隙も無く自我が否定され大悲されている自覚が悲歎ということであります。「禿の字をもって姓とす」とは、悲歎すべきものとして生きているという名のりでもあります。それはまた平等の大悲の届いたところなのです。
(『ともしび』2018年11月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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