経教の鏡 ── 自分を知るということ
(武田 未来雄 教学研究所所員)

現代は、インターネットの普及により、高度な情報社会を迎えたが、そのため、多くの情報とどう向きあっていけばよいのか、様々なところで大きな問題となっているのではないだろうか。たしかに多様な媒体機能によって、自己の意見や考え、感動したことを直ちに発信し、他者と共有の出来る場が多く開かれるようになった。しかし、同時にそうした発信された情報によって、深く傷つけられたり、排除されたりと、苦悩を抱えることもある。自己表現の場が広がる一方で、同時にその発信している自分とは何か、自己自身について見つめていくことも大切ではないだろうか。
 
私たちは、常に価値を決める基準、言わば"ものさし"を使って、物事を判断している。それは、時には偏った見方になることもある。すなわち性別や人種、身長や体重、顔の美醜、社会的属性などによって他者の価値をはかるのである。しかも、それが意識しないところで、価値判断がはたらいている。私たちは、その信じきっている"ものさし"の判断基準の正否、さらにはそれを見る"自己自身の眼"を問う必要があるだろう。
 
しかし、自分自身で、自分が間違っているかどうかなどを確かめることはなかなか出来ない。時には、他人からの指摘によって、自分の誤りに気づかされることもあろうが、どうしても対立したり、衝突したりする。だからこそ、人間を超えた眼からの自己省察が必要ではないか。
 
古来仏教では、「経教はこれを喩うるに鏡の如し」(『真宗聖教全書』一巻四九三頁)と言って、教えは自分自身を省みる大切な鏡の役割をはたしてきた。教えによって、自分自身はどれだけ煩悩にふりまわされ、判断をにぶらされ、偏見でものを見ているのかが、知らされるのである。
 
特に、唯識仏教では、こうした偏見について、我痴、我見、我慢、我愛の四大煩悩があるといわれる。我痴は自分の本当のすがたに気づかないこと、我見は誤った自分のすがたにとらわれていること、我慢は慢心して自分は真理を知っていると信じきっていること、我愛は自分を愛しとらわれることである。これは常に自分の深層意識において、はたらいている煩悩である。どこまでも自分は、自己の考えにとらわれ、自分を是として、自我にとらわれることが教えられている。これら四大煩悩について、曽我量深氏は、真宗の仏道においても、自力我執を考えていく上での大切な教えとされていた。氏は、煩悩を捨て去ることは出来ないが、どれだけ自分たちは我執我見にとらわれているかを自覚懺悔し、そういう自分の現実を常に見ていく必要があると言われる。
 
様々な媒体を使って自分の意見や感想を表現し、お互いにその情報のやりとりをしていくことは、とても大切なことである。しかし、同時にその自分とは何ものなのか、どのような見地から見ているのか、自分自身を省みることが必要であろう。現代は、外に発信する技術は発展させるが、なかなか内なる自分を正しく見る手だてが少ない。ますます「経教の鏡」は必要なのである。
 
(『ともしび』2018年10月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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