深さを伝える読み
(新野 和暢 教学研究所嘱託研究員)

初対面の方と名刺交換をした時、名前の読み方に困ることがあります。よく目にする名字でも、人によって読み方が違っていることがあり、礼を失してしまうかもしれないからです。例えば「羽生」と書いてあればなんと読めば良いのでしょうか。「はにゅう」、もしくは「はぶ」でしょうか?実はこの他にも、「うもう」、「うい」など二十種ほどの読み方があるそうです。
 
大陸から伝わった漢字の読み方は、独自に発展しました。地域ごとの特性もあるようです。そして、最近ある方から、最も読み方の種類が多い漢字が「生」だということを教えていただきました。色々と調べてみますと、一五八通りもの種類があるようです。類例がないほど多くの読みがあるのは、「生」という文字の背景にある多様な営みの深さが表象されているのかもしれません。
 
一方で「死」は、「し」、もしくは「じ」としか読みません。誰しもに等しくおとずれる状態という「死」を象徴しているようではありませんか。「生老病死」という言葉のように、意味的に「死」そのものを表す際には「し」と読みます。しかし、正信偈に「証知生死即涅槃」とあるように、仏教において「生死」と続く場合は「しょうじ」です。
 
一般に用いる「せいし」と読むのであれば、生命と死とを指す言葉です。しかし仏教では、迷いの世界そのものを指す概念なのです。単に生き死にを意味するのではなく、私たち一人ひとりが迷い苦悩する状態を明示しています。「高僧和讃」に、
 

生死の苦海ほとりなし
ひさしくしずめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける(聖典四九〇頁)

 
とあります。「生死の苦海」とは、思い通りにならない苦しみが絶えない「私」の日常生活そのものを指しています。理想的な自分と現実の自分は違います。やりたい事に果てはありませんが、出来ることは限られています。次から次へと波が押し寄せてくる海の果てしなさに、欲望を満たそうとする迷いの現実が譬えられているのです。
 
そして「ひさしくしずめるわれらをば」とあるように、苦しみの海に沈みきっている私たちは、自分の力で迷いを断ち切ることはできないのです。もがけばもがくほど、深く沈んで行く私たちを救いとって、迷いのない世界へと渡してくださるのが、弥陀の本願という船だけであるという意味がうたわれているのです。
 
筆者は最近まで、生死は、相反する矛盾した概念が合わさり一つになっている言葉である、という表面上の理解しかしていませんでした。しかしそうではなく、深い迷いの中にいる「私」を知らしめる言葉が、生死なのです。「かならずわたしける」という宗祖の確信を通じて、欲に沈んでいる「私」の迷いの深さに救いがあることに気づかせて頂いているのだと実感します。
 
(『ともしび』2018年9月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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