法語について思う
(安藤 義浩 教学研究所嘱託研究員)
病院の待合室が好きな人はあまりいないだろう。老人の社交場となって、だれかがいないと、「今日は体調でもわるいのかしら」と心配しあう、という笑い話(笑えない話?)は聞いたことがあるが、一般的には、付き添いであっても、晴れやかな気分というわけにはいくまい。いつ順番がまわってくるか分からなくてイライラするし、周りの方々も体調がすぐれないから会話がはずむということもまずない。
そんな待合室で目がいくのが書棚である。西東社編集部編『必ず出会える!人生を変える言葉2000』(西東社、二〇一五年)という本を手に取った。古今東西さまざまな分野の方々の言葉が紹介されている。「努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る。(井上靖)」(四三頁)、「うつむいたままでは、虹は見つけられない。(チャーリー・チャップリン)」(七八頁)、「和顔施(仏教)」(二〇九頁)など、言葉のシャワーが次々と沈んだ心にすっと入ってくる。
真宗本廟(東本願寺)前の芝生には「ソーラー行灯」が並べられている。夜になると、昼間蓄えた太陽エネルギーで烏丸通りの歩道を照らす。それぞれの行灯には真宗の教えを説いた法語が書かれてある。京都駅としんらん交流館とのあいだを行き来するとき、真宗本廟を背景にして法語をたしなむのが私のエネルギーとなっている。贅沢なひとときだ。
ちょっと前まではひっかかるところがあった。以前は法語とともに、どなたが言われたのかも示されていた。問題は私にあるのだが、たとえば「曽我量深」「金子大榮」と書かれてあると、法語よりもそちらに目がいってしまうことがあった。心していただかねばならないという一種の緊張感、この言葉はどの本にあっただろうという余計なはからいが、法語と向き合うことの邪魔をした。一方で、この人が言っているからやめておこうかなという傲慢な心が顔をだすこともあった。
現在の行灯に名前は書かれていない。変更になった理由は不明だが、私にとっては法語に出会う上での障壁がひとつ取り除かれた。感謝したい。
もちろんこれですべてが解決したわけではない。自分の都合にあうものを選んで「刺さった、刺さった」と、悦に入っているかもしれない。たぶんそうであろう。そういう凡夫性を承知した上で、仏教の課題を法語に教えていただいている(つもりである)。
「人は出会いによって育てられ、人生は別れによって深められる」
「人間の欲望は品切れすることはありません」
「死をみつめると生が問われる」
先日出会ったこれらの法語に野暮な説明は不要であろう。
「いただいた 生命(いのち)のご縁 みな平等」
「お互いに 違いを認める 御同朋」
こちらは交流館近くの本願寺派の施設に掲げられてあったものだ。
いずれの法語にも本願の精神が表されている。すなわち、「南無阿弥陀仏」がやさしい言葉となって私たちに語りかけているのである。
(『ともしび』2019年5月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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