声に聴く─イタイイタイ病の教訓を生かすために
イタイイタイ病被害者家族 小松 雅子さん
業病とさげすまれ、奇病と怖れられていた、イタイイタイ病を患い、長い間苦しみに嘆きつつ亡くなっていかれた皆さん、どんなにか残念だったことでしょう…」と始まる追悼の言葉は勝訴判決後の一九七二(昭和四十七)年八月に執り行われた法要の冒頭の言葉でした。
布団一枚でさえもその重みで「痛い」、寝返りを打たせようと背中を持ち上げただけで肋骨が何本もまとまって骨折する、このような耐え難い激痛に苦しんだ多くの患者が富山県の神通川流域に発生いたしました。救いのない痛みの中に、治るあてもなくただただ苦しんで生きてきた患者。神仏に祈り、占いに頼り、疫病神を払えると聞いて田んぼに塩をまいたといいます。
一度焼き付いた偏見はなかなか消えません。イタイイタイ病の患者がいることがわかると生活ができなくなると、患者がいることを隠す家庭も少なくありませんでした。伝染病、業病、風土病とささやかれるようになっていきました。
苦しみは患者だけに留まらず家庭全体の上にものしかかりました。業病と思い込まされた患者は世間にこれを恥じ、人目を避けて孤独と絶望の中、肉体を死に追いやるという暗さが家庭全体を覆い、家庭が破壊されました。そして差別偏見に苦しめられ、地域の絆さえも破壊していきました。
痛みと苦悩の果て、患者たちは何を思ったのでしょうか。それは紛れもなく死を思い覚悟しました。農薬自殺をしようか、川へ飛び込もうか、死ぬための薬を医者にせがんだとも言います。患者は二重三重の痛みを浴び、死はむしろ恐怖ではなく死を待ち望み、楽になりたい、その一心だったように思われます。死んで恨みをと自らの命を絶たれた患者もおられました。
富山県は真宗王国ともいわれ多くの門徒がおられます。ご住職が骨あげの法要の際読まれる御文に「ただ白骨のみぞのこれり、あはれといふもなかなかおろかなり」とつづられています。その白骨さえも、五体の面影を示す遺骨が見当たらないといいます。何の罪もない多くの患者が連日連夜激痛と苦悶の果て死亡した哀れな被害者の最後の姿であり、これがイタイイタイ病の悲惨さです。遺族の言いようのない悲しみを感じます。
私の祖母もまた、二十六年間の闘病生活の末、一九七四(昭和四十九)年十月にイタイイタイ病で亡くなっています。じっとしていても痛い、身動きをすればなお痛い、骨がきしむような痛みであり、顔をその都度しかめていました。二十四時間この痛みを伴いながらの日常生活でした。そのような祖母は意識が薄れていく中でも「イタイー」と大きな声で叫んで亡くなっていきました。
痛みから解放されたのが死というあまりにもはかない祖母の生涯となりました。
父(小松義久)はこの原因が神通川に流される鉱毒によるものであれば、徹底的にその責任を追及していかなければならないと決意しました。そしてこの問題は誰かが取り組まなければならない、どうあろうとも最後までやりと遂げなければならないと思い、一九六六(昭和四十一)年十一月イタイイタイ病対策協議会が結成され会長を引き受け、運動が繰り広げられていきました。
父は団結にこだわり、患者さんの家を一軒一軒周って、裁判への理解と協力を伝え一人一人自分のこととして考えてもらうよう心掛けていたようです。裁判の費用を捻出するため、自分の資産を担保にするなど、裁判に負けたらこの土地におれないと、戸籍をかけての闘いとなりました。
このような運動の中、父は「何が目的だ」、「金儲けでもしたいのか」、「会長を辞任しろ」、といった心無い言葉を浴びていました。また、「米が売れなくなったら責任がとれるのか」などと言われ、十人くらいに囲まれ袋叩きにされそうになったこともあったようです。命がけの闘いでした。
その傍ら我が家は二十数年間にわたり嫌がらせの電話、無言の電話、命をおびやかす脅迫電話、いわれのない誹謗中傷が父を苦しめていました。このような電話があると最後まで聞き、電話が切れた後は夜中であろうともずっと下を向いて考え事をしている父の姿を思い起こします。
そしてその電話は私にも及びました。「小松義久の娘か。殺してやろうか」。声をつぶしておられたこの声は生涯忘れることはないと思います。
患者さんが亡くなられると病院より一報が入ってきました。父はそれがどんな真夜中であろうと雪の積もった真冬であろうと必ず病院に駆けつけ、患者さんの解剖が終わるまで暗い廊下でずっと一人待っていたようです。患者さんに思いを寄せ、「あなたの死を決して無駄にしません」、そう思いながら待っていた父ではないかと思います。
そんな父も二度と悲惨な公害病を起こしてはならない、イタイイタイ病を風化させてはならないと強い思いを抱き、イタイイタイ病の資料館((注))の建設を願いながら、二〇一〇年二月「ありがとう、ありがとう」と言いながら、八十五歳の人生を閉じました。患者さんそして地域の人たちと、ともに悲しみ、ともに寄り添いながら歩んだ人生であったように思います。
「真実を真実として語り継いでほしい」と言い残した父の言葉の重さを感じながら、二度とこのような惨禍を繰り返さないためにもイタイイタイ病の教訓を継承し発信することを私の使命として担ってまいりたいと考えています。(抄録)
(注)富山県立イタイイタイ病資料館が2012年4月開館。
(解放運動推進本部)
真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2020年3月号より