自力の 御はからいにては 真実の報土へ 生るべからざるなり

法語の出典:「親鸞聖人血脈文集」『真宗聖典』594頁

本文著者:藤元雅文(大谷大学准教授。岡崎教区寳德寺住職)


このことばは、親鸞聖人が建長七年八十三歳の時にしたためられたお手紙の中に出てきます。またこのお手紙は親鸞聖人の真蹟が現在も伝えられており、そのはじめには「かさまの念仏者のうたがいとわれたる事」という標題がつけられて、お手紙であるとともに、大切な御法語として受けとめられてきました。

ここで親鸞聖人は、自力のはからいでは真実報土へうまれることはできない、とはっきり言い切られます。自力とは、「みずからがみ(身)をよしとおもう」心であるとともに、「あしきこころをかえりみ」る人間の思いはからいです(『唯信鈔文意』真宗聖典五五二頁)。真実報土とは、どのような人も平等に誰一人もらすことなく我が国に生まれさせ苦しみから超えさせたいと誓った阿弥陀仏の願心によって成り立つ世界のことです。この阿弥陀仏の浄土に至ることができず、仏の願心に出遇うことをさまたげている根本の所に「自力の御はからい」があるのだと親鸞聖人は教えられています。

ところで、現代は人間のはからいによって創り出された科学、技術の力が、人間の存在意義を揺るがすような事態を引き起こしているように思います。たとえば、AI(人工知能)の発達による人間以上の知性を持ったコンピューターやロボットの出現、ゲノム(遺伝子)の分析と組み換えによる、ヒトを含む生命そのものの操作など、どのような結果を生み出すのか誰にも完全には分からないまま、研究はとどまることなく続けられています。皆さんは、これらを希望ある未来のために必要なことと感じられるでしょうか。

確かに学問、科学、技術の発達は、人間が懐く理想を実現しようとする努力の中から生み出されてくるという側面もあるでしょう。しかし、その理想を実現しようとする人間の心根に存在している問題性を避けて通ることは許されないと思います。なぜなら、大きな力を持てば持つほど、人間はその力によってより大きな苦しみ、悲しみをもたらすことになったという歴史の事実があるからです。この事実に真向いになる時、「みずからがみ(身)をよしとおもう」ことは人間の傲慢となり、また「あしきこころをかえりみ」る人間のはからいは、共に苦しみ悲しみを超えていく力になりえなかったという人間の思いはからいそのものの課題が見出されるように思います。

ただ、「自力の御はからい」とは決して不真面目なことでも、端的な悪事でもありません。親鸞聖人もまた比叡山時代、自己の課題に向き合い、みずからの身と心と力とを拠り所として苦悩を超える道を求められました。真実に苦悩を超える道を求め、その上で本願の教えに出遇われたからこそ、「自力の御はからい」そのものにひそむ人間の根源的な課題性に気づかれ、そのことがすでに仏の智慧の眼によって見抜かれていたと自覚していかれたのです。

自力の御はからいにては真実の報土へ生るべからざるなり

このことばは、人間の誠実な努力を初めから否定するものではありません。しかし、その努力によっては、決してなし得ないことがある。それは、人間存在全体を支え、引き受け、どのような状況で生きることになってもその生を生ききっていくという歩みを生み出すことです。私たち一人一人の誠実な努力を尽くしていく中で、私たち自身の心根にある「自力の御はからい」という課題性を自覚せよと語られながら、その上で、すべての人と共にいかなるものも見捨てないと誓われた本願の教えの前に立つものとなれと、親鸞聖人は私たちによびかけつづけられているのです。



東本願寺出版発行『今日のことば』(2018年版【6月】)より

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2018年版)発行時のまま掲載しています。

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