「親鸞聖人御物語」を聞く
(難波 教行 教学研究所研究員)

人間にとって究極的に必要なものが4つあります。それは衣・食・住、そして物語だと思うのです。(『サンガ』一二六号、 東本願寺「真宗会館」、二〇一三年十一月)

 

小説家・天童荒太氏は、あるインタビューでこう語っている。物語が、生活の基礎となる衣・食・住に並ぶほど必要なものだという視点に、私はとても驚いた。
 
同時に私は次の言葉を想起し、『歎異抄』が唯円によって聞き取られた「親鸞聖人御物語」――物語であったのかと、今さらながらに気がついた。
 

まったく自見の覚語をもって他力の宗旨を乱ることなかれ。よって、故親鸞聖人御物語、、、、、、、おもむき、耳の底にとどむる所、いささかこれをしるす。 (『歎異抄』前序〔蓮如上人書写本〕、 聖典六二六・ 一〇九五頁参照、原漢文、傍点筆者)

 

物語はむろん情報ではない。情報であれば、内容を理解したらもう聞く必要はない。だが物語はちがう。物語は、内容を覚えたとしても何度も聞くことができ、その都度感じ方が変わるものである。『かぐや姫』のような誰もが知っている物語であっても、幼い頃に聞いたときと、成人してから聞いたとき、また、例えば子どもに語りかけるときで、感じ方はきっと同じではないはずだ。
 
『歎異抄』にあらわれる言葉が「親鸞聖人御物語」だと言われるのは、情報のように一度理解すれば事足りるようなものではなく、唯円が耳の底に留めるほどに、繰り返し憶い起した親鸞の言葉であるからだろう。そして何度も憶い起こさなければならなかったのは、教えに背く自己――すなわち〝自見の覚悟を語る自己〟を知らされたからなのではないか。
 
伝統的に『歎異抄』は、親鸞の教えを示す前半の「師訓篇」と、その教えに背いた在り方を示す後半の「異義篇」(歎異篇)に分けて理解される。その見方は的を射たものにちがいない。しかし「異義篇」だけでなく、「師訓篇」もまた、教えと異なる義に立つ、悲歎される自己を明らかにする言葉と言える。つまり誰よりも唯円自身が、さらに言えばその言葉を物語った親鸞自身が、教えに背く自己を知らされている。そしてそこに聞こえてきた教えが、「親鸞聖人御物語」となっているのである。
 
思えば、浄土真宗の教えはいくつもの物語によって伝えられてきた。『無量寿経』の法蔵菩薩の物語。『観無量寿経』の韋提希の物語。『涅槃経』の阿闍世の物語。「正信偈」もまた、浄土真宗があきらかにされてきた物語と言ってよいだろう。
 

物語は、実際に起こった出来事とは限らない。しかし、その物語を聞いた人々によって、浄土真宗の教えは伝わってきた。この物語の歴史は、教えに背く自己が明らかになってきた歴史でもある。その歴史によって、私たちは教えられ、育てられる機会に遇えるのである。
 

天童氏は、こうも述べている。
 

物語こそが人間を人間たらしめるものだと思うのです。 (前掲『サンガ』一二六号)

 

唯円、そして親鸞と同じように、私も「親鸞聖人御物語」を、いま聞きひらきたい。
 
(『ともしび』2022年3月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
 

お問い合わせ先

〒600-8164 京都市下京区諏訪町通六条下る上柳町199 真宗大谷派教学研究所 TEL 075-371-8750 FAX 075-371-6171