縁起

著者:大江憲成(日豊教区觀定寺住職・九州大谷短期大学名誉学長)


日頃、縁起という言葉をよく耳にします。

 

「あっ、お茶碗に茶柱が立っている。縁起がいいな」。「まあ、あなた縁起をかつぐのですね」。私たちは吉凶禍福の前兆にふれて縁起が良いとか悪いとか申します。「袖振り合うも多生の縁」。ふと袖がふれ合っただけの二人の出会い…、それはいくどなく生を重ねし果ての深い縁。「このお寺の縁起は室町時代にさかのぼります」などはお寺の由来や歴史を意味します。

 

このように縁起という言葉は歴史的にもいろいろな意味合いで使われてまいりました。

 

ここで本来の意味に立ち帰ってみましょう。人間の物の考え方、思想、宗教にとって革命的な言葉であることが知らされてまいります。

 

「縁起」の原語は pratitya-samutpada (プラティートヤ・サムウトパーダ)で、pratitya は「~に縁って、~に依存して」、samutpada は「共に生起していること」です。つまり縁起とは、物事がさまざまな事柄、はたらきを「縁」として共に関係し合いながら「起」こっている事実を意味します。

 

たとえば芽が出る時、芽は種を因として出ると考えますが、実は水や太陽の光などを縁としなくては芽は生じません。またそこには実は光や水にとどまらず、限りなく織りなす背景があります。

 

あらゆる物事は単独で存在しているのではないのです。関係し合いながら変化し合いながら成立している相補的な関係体なのです。

 

釈尊はこの縁起に目覚めた方で、「縁起を見るものは法を見る」と語っておられます。縁起とはすべての衆生が目覚めなくてはならない大切な法(道理)であるとご説法くださっているのです。

 

ところが私たちは日頃、その道理を無視して、自分と周りとの関係を切り離して、自分を実体視し固定的に受けとめています。ずっと自分のことばかりを考えているのがそのしるしです。

 

また、たとえば「私ってダメ。だってお金がないんだもん」など、本来お金がすべてではないのですが、お金が第一の価値であると実体的に思ってしまい、本来、無上の意味を湛えている我が身を、ダメな人間だと決め込んでしまいます。

 

また、「ずっとこのままであってほしい」と、他と切り離して無関係な自分自身を想定し、その自分にのみ価値が永久に不滅にあることを願い続けます。

 

そのように私たちの考え方は、いつも実体的な考えを基本にして決め込んでいます。神や運命、差別や排除などもその考え方に基づいているのです。

 

しかし縁起は、すべては関係としてあるという事実を語る道理ですので、その道理が知らされる時、実体的な考えは根拠なきものとなります。

 

そこではいかなる独断もエゴイズムも虚無主義も成り立ちません。人生は決められないし、決め込む必要もありません。定義づけられないし、意義づける必要もありません。人生は人間の勝手な解釈にはまるものではなく、本来私たちの思いを超えて限りなく広く深く、そして豊かなのです。

 

私たちはまことにちっぽけな存在でありますが、はからずも、皆平等に、大いなる豊かな関係体として、今、ここにこうして生きているのです。

 

『暮らしのなかの仏教語』(東本願寺出版)より

 

 


東本願寺出版発行『真宗の生活』(2018年版③)より

 

『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2018年版)をそのまま記載しています。

 

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