「「自分の存在に感動する」とは」
(教学研究所所員・名和達宣)
生まれたことの意味を意識しだしたのは、中学二年生の時。それまでにも「死んだらどうなるのか」といった疑問を抱くことはあった。けれども、生きることに息苦しさをおぼえ、「なぜ、私としてこの世に生まれたのか」と思い詰めるようになったのはその頃からだ。思春期にありがちな悩み、とも言えようが、人間としての根本的な問いが、そういうかたちで湧出してきたのではないかと想う。
ところが、高校に進学すると、この問いに自ら蓋(ふた)をするようになってしまった。刹那的な快楽や娯楽に逃げてごまかすようになったのである。そしてそのような生き方のまま大学へ進み、それなりの青春を謳歌していったのだが、卒業する前年にツケが回ってきた。
きっかけは、大学内の人間関係の些細なトラブルだったが、最終的に居場所を失い、周囲にいる人を誰も信用できなくなってしまった。何よりも、自分で自分を受けとめられないことに失望した。するとその時に、蓋をしていた問いが再び押し寄せてきたのである。
その問いに促されて家を出た私は、京都の真宗本廟へ向かった。何年か前、ある住職から聞いた「人生に思い悩んだら、本山に参って親鸞聖人の像と向き合いながら念仏をとなえる。そうすると悩みがスーッと消えるのだ」という言葉が想起されたからである。ワラにもすがる思いで参ったのだが、いざ御影堂に入って念仏をとなえてみても、心の闇が晴れることはなかった。そうして「やっぱりだめだったか」と落胆しつつ、ぼんやりと廊下を歩いていると、突然、壁に貼られた法語が目に飛び込み、足が止まった。
意味はわからなかった。しかし、まず「自分の存在に感動するなんてことがあるのか」と驚き、さらには「そこに南無阿弥陀仏がある」と言い切られていることに、驚きつつもなつかしい何かを感じた。そしてその根拠を知りたいと思うようになり、翌年から宗門大学で二度目の大学生活を送ることとなった。
入学して間もない頃、真宗学の授業で、『大無量寿経』中の次の言葉を教えられた。
この経言は、釈尊誕生の伝説に由来するが、ここでは誰もがそのような存在として生を享けたと示されている。人と生まれたということは、大地が震動するほどの出来事であり、その震動に共感する時、「吾当に世において無上尊となるべし」と称えられるのだと。『大経』では、本願が建てられ「重誓偈」が詠まれた後と釈尊が本願念仏のいわれを説き終えた後に、再び大地が「六種に震動す」とあり、特に「重誓偈」の結びでは「大千感動すべし」と呼びかけられている。ならば、あらゆる存在を受けとめる大地の響きへの呼応を、称名念仏というのではないか。
今、改めて想う。南無阿弥陀仏とは、人と生まれたことの感動を、われらの記憶の奥底、忘却の彼方から呼び覚ます言葉であると。
(『真宗』2021年9月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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