死から問われること
(武田未来雄 教学研究所所員)

最近は「よりよい死に方」など、死について見聞する機会が多い。しかし、死は単に人生の終わりだけを意味するものであろうか。逆に死の自覚は、生きることの大切さを知るものではないか。

 

ある映画の一場面に、あやまって海に落ちた女性が、最初はそのまま沈んで死のうと思ったが、一転、生を求めて必死になって海面まで泳ぎ出たというシーンがある。この時彼女は、生に対する強い意志をもつ自分に気づいたのである。それまで彼女は、荒んだ生活をし、暗い人生を生きていた。しかし、この体験以降、生活に対して前向きになって生きるようになる。

 

主人公は、はからずも「死」と向きあうことによって、誠実に生きることの大切さを知るのであった。死を機縁として気づかされる生の尊さということがある。いのちには死、すなわち終わりがあり、このことを知ることによって、それまでの生き方が問い直されることがあるのである。

 

しかし、いつも死の恐怖におののいて生きるわけではない。自分はいつかは死ぬであろうが、それは「まだない」。そこには死までの「間」があり、その「間」が緊張をやわらげ、生活をしていくための余裕をうむ。しかしこの弛み、余裕がいのちにおける大切な意味を見失わせるのである。だから、死と向きあい、自分の生き方が問われる必要があるのではないだろうか。

 

善導大師は、「信心の守護」のためとして、「二河白道の譬喩」を表して下さっている。そこには「三定死」ということが出てくる。それは「我今回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん」(『観経疏』聖典二一九~二二〇頁)との言葉である。二河白道の旅人は、この三定死を契機として、釈迦仏の勧める声、阿弥陀仏の喚び声を聞くのである。

 

譬喩の表現上、旅人が歩みだそうとする一歩と、勧める声と、喚ぶ声は段階的のように見える。しかし、これらは同時に起こっているのではないだろうか。まず、この釈迦仏の勧めや阿弥陀仏の招喚は、三定死の覚悟の前から、ずっと呼びかけているものであろう。しかし、その呼び声は、自分の思いやはからいを優先して生きている時は聞こえてこない。「三定死」に立たされた時、はじめて真実の教えの声として耳に入ってきたのである。

 

この譬喩は、「自己の死」と向きあうことの意味を教えている。はじめは死から逃れようとするが、一転して、死を覚悟していく道程が表される。どれだけ進もうが、帰ろうが、はたまた止まろうとも、死はおとずれる。死の前には自分の思いはからいは無力である。死を覚悟することは、自力の限界を知ることである。この覚悟において、真実の教えが聞き開かれるのである。

 

普段は、どこに向かい、何を求めて生きているのか、そうした大切な問いを問わずに教えを聞こうとしていた。死を通して見えてくる、自分の思いやはからいを超えた、真実に生きようとする願いがあるのである。この願いを呼び起こし、願いによって生きることを勧める、真実の教えを聞思する道がある。死から自分の今の生が問われている。その教えの声に耳を傾けることが、今願われているのではないだろうか。

 

(『ともしび』2021年10月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)

 

お問い合わせ先

〒600-8164 京都市下京区諏訪町通六条下る上柳町199 真宗大谷派教学研究所 TEL 075-371-8750 FAX 075-371-6171