「報恩講であいましょう」
著者:田村晃徳(東京教区茨城二組 専照寺候補衆徒)
「今年もあの時期か…」。毎年、季節が秋になるとこのような思いをもつ方も多いのではないでしょうか。そうです、報恩講の季節です。
報恩講をお迎えするにあたり、お寺のお掃除や、お斎の準備などでお力添えをいただくご門徒の皆さんにとっては、特にそのような思いは強いでしょう。料理の段取り、お掃除のやりかた、荘厳のお手伝いなど、やることはたくさんあります。「今年もあの時期か」という言葉には、おそらく喜びだけではなく、緊張やさまざまな思いが込められていると思います。それでも、人と人とがふれあい、共に報恩講をお迎えできることは本当にありがたいことです。
また、準備などの関わりはなくても、毎年報恩講には必ずお参りしている方も多いと思います。あるいは、「ホーオンコ―? 何それ」と思いながら、この冊子を読んでいる方もいるかもしれません。それぞれが、それぞれのご縁のもと、今年の報恩講をお迎えされることでしょう。
そのように報恩講への関わり方はさまざまですが、ぜひご一緒に考えたいことがあります。それは、「なぜ、私はお寺と関わり続けているのだろうか」という、そもそもについてです。「そりゃ、大切な人が亡くなったから」「親がお寺の行事に熱心だったからねぇ」など、いくつかの理由は見つかるかもしれません。しかし、それは、お寺と関わり始めた理由ではありますが、関わり続けている理由となるのでしょうか。身近な方を亡くしたからお寺と関わり続けるというのであれば、各地で勤まる報恩講をはじめとした法要は常に満堂でしょう。しかし実際は違うようです。だからこそ、あらためて自分がお寺と関わる理由、そして報恩講にお参りする理由を考えてみたいのです。
しかし、突然理由を考えてみようと思っても、手がかりがなければ難しいかもしれません。そのヒントは、「報恩講」という名称にありそうです。「報恩講」とは、「御恩に報いる集まり」という意味です。ならば、「私は何にご恩を感じているのだろうか」という問いがうまれます。
その問いを思うとき、私は生きている方、亡くなった方を問わず、多くの方々との出遇いを思いおこします。今思えば、私はその方々との出遇いを通じ、世界の新しい見方を教わり、深く人生を考えるきっかけをいただいたのです。親鸞聖人についても同様です。仏教を学ぶにしたがって、私の人間観は変わりました。親鸞聖人との出遇いにより、広やかであり、深みのある人間観を教わったのです。同時に、私は自分の人間観がいかに狭く、人生への考え方がどれほど浅いかを痛感させられました。つまり、親鸞聖人との出遇いにより自分を知ることができたのです。私は、そこに親鸞聖人へのご恩を感じるのです。
親鸞聖人にも多くの大切な出遇いがあったはずです。親鸞聖人も、師である法然上人との出遇いを通じ、広やかな世界を知ったに違いありません。時代も才覚も違いますが、出遇う世界は、私達も親鸞聖人も共通だと思うのです。
さらに言えば、親鸞聖人をはじめ、お念仏の教えに生きてこられた方々は、私達がその世界に気づくことを願ってやまないのです。その願いに気づき、応えることが、「恩に報いる集い」、つまり「報恩講」へとつながるのでしょう。皆さんにとって、心に残る「出遇い」や「ご恩」は、どのようなものでしたか。
「今年も あの時期か…」。カレンダーを見ながら、例年と同じセリフを口にする方も多いでしょう。でも「出遇い」と「ご恩」を考えるとき、言葉は同じでも報恩講に対する思いが少し深まった自分が、そこにはいると思うのです。
それでは皆さん、報恩講であいましょう。
東本願寺出版発行『報恩講』(2018年版)より
『報恩講』は親鸞聖人のご命日に勤まる法要「報恩講」をお迎えするにあたって、親鸞聖人の教えの意義をたしかめることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『報恩講』(2018年版)をそのまま記載しています。
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