「呼応の問い」
(教学研究所助手・松下俊英)
「死」ということを知った時、誰もが一度はこのように問うことがあるだろう。それは自分の死というより、むしろ親しい人が亡くなるということを意識した時に、直面する問いかもしれない。もちろん、問いの前を通り過ぎることもある。少なくとも問わないように日々を過ごしているのが私である。しかしながら、虚しさや寂しさ、あるいは不安に苛まれることがある。となると、冒頭のように問わざるを得ないのが人間なのだと思う。
仏教では、生きとし生けるもの(衆生)を五つの境界に分けている。地獄・餓鬼・畜生・人・天の五趣である(後に阿修羅を付加して六趣となる)。これらは、衆生が生まれ変わり死に変わりして趣く世界である。地獄・餓鬼・畜生は三悪趣と言われ、他方、人・天は善趣とされる。
これらの中で、私たちは善趣である「人」と生まれた。善趣なのだから、悪趣の苦はないように思える。しかし、悪趣とは人間の最も過酷な苦しみが表現された相なのではないか。さらに、人間の過酷な苦しみが表現されているからというだけで、三悪趣に「悪」と付されているわけではない。というのは、三悪趣を「仏の教えを聞く機会を失っている境涯」と仏教では見るからである。すなわち、仏の教えを聞く機会を失っていることが「悪」なのであり、「過酷な苦しみ」だと見ることができる。
加えて、善趣である天も、そこに住する神々は、長寿の故に教えを聞く機会がないということ、長寿であってもいずれ天より堕す生死流転の境界であるということを仏教は示している。ということは、「人」だけが教えを聞くことのあり得る、唯一の境界ということになる。
『仏説無量寿経』には、法蔵菩薩の四十八願が説かれた後、その願の意を確かめるように、続けて「重誓偈」と呼ばれる偈頌が示されている。そこに次の句がある。
もろもろの悪道を閉塞して、善趣の門を通達せん。(『真宗聖典』二五頁)
法蔵菩薩は、智慧をもって無明の闇を破り、もろもろの悪道を閉じ塞ぎ、善趣の門をひらくと誓われている。
悲しいことに、人と生まれながらも、心はほしいままに悪道そのものである。だからまた、善趣も含め「五悪趣」(『真宗聖典』五七頁)とも説かれるのであろう。
しかしながら不思議なことに、その心に虚しさや不安などがもたらされるということも事実である。ということは、そのような心に、教えを聞く機会が開かれていると言うことができるのではないだろうか。
そうであれば、「いつか死ぬのになんで生きるんだろう」という問いは、法蔵菩薩の超世の願に呼応する、「人と生まれたこと」の大切な・しるし・なのではないか。人と生まれたからには、問わずにおれない問いなのである。
(『真宗』2022年5月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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