造建築で世界最大級の建物である御影堂。入るとその壮大さに圧倒されます。

東本願寺の御影堂は、1864(元治(げんじ)元)年の禁門(きんもん)の変で焼失し、1895(明治28)年に再建されました。東本願寺は、東西分派後の江戸時代に4度の火災に遭いながらも、全国から駆けつけた数多くの僧侶・門徒らによって、その度に再建されてきました。

 4度目の明治の再建時は江戸幕府から明治政府へと変わる激動期でした。また、大都市の度重なる大火により木材が枯渇しており、御影堂に使われるような木材を見つけるのは至難の業でした。そのため、全国のご門徒が山の奥まで分け入り、村いちばん、町いちばんの木を切り出して、寄付をされました。

 当時は今のような重機もなく、山中から集積所まで木材を運ぶのは人力でした。そして、木材を()き上げるために用いられたとされるのが毛綱でした。毛綱は女性の髪の毛と麻を撚り合わせて作られており、通常使われていた麻の綱よりも丈夫でした。

毛綱は女性の髪の毛と麻を撚り合わせて作られており、通常使われていた麻の綱よりも丈夫でした。ある村では、毛綱を使い伐採した太い(けやき)材を谷から約200メートル程曳き上げ、日本海の港まで曳き出したという伝承もあります。毛綱は全国から53本寄進され、最も大きいものは長さ110メートル、太さは 40センチ、重さは1トンにも及んだといいます。  

 全国で切り出された欅などの木材は、1889(明治22)年五月までに176,000本集まり、鉄道や海運などで再建の現場に運ばれました。

 

 再建に携わった僧侶・門徒は出身地域で宿泊所を建てて、夜は仏教や真宗の話を聞きながら、昼間は両堂の再建に携わっていました。それが現在も東本願寺の門前に残る詰所(つめしょ)です。その一つに井波や城端(じょうはな)があった砺波(となみ)郡の人びとが宿泊した砺波(となみ)詰所(つめしょ)があります。この砺波詰所の2代目主人として知られるのが砺波(となみ)庄太郎(しょうたろう)(1834年~1903年)です。本名を坂東忠兵衛といいましたが、明治の再建に従事する人々を統括(とうかつ)して身を粉にして尽くしたといいます。

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