妙好人を訪ね、城端別院で『大無量寿経』に出会った柳宗悦は、阿弥陀如来の四十八願の第四願「無有好醜の願」に注目し、『美の法門』を書き上げました。

この「無有好醜の願」は、「設我得仏 国中人天 形色不同 有好醜者 不取正覚」とあり、これを柳は、「若し私が仏となる時、私の国の人達の形や色が同じでなく、好(みよ)き者と醜き者とがあるなら、私は仏にならぬ」と訳しました。そして、「無有好醜の願」を通して信と美の問題は仏の世界においては別ではないことを示し、人が美醜の分別に迷わず美しくなっていけば、そこにこそ凡夫の救済があるとしました。

『美の法門』を執筆した柳は、その後、浄土思想により民藝の原点について根拠を求める思索をし、宗教と美におけるこの世の救いの実践として、名号を思想の根本であるとして、その意味を探ろうとしました。そして、柳は1951(昭和26)年から1955(昭和30)年にかけて、雑誌『大法輪』に連載した南無阿弥陀仏がもつ意味について、1955(昭和30)年『南無阿弥陀仏』と題して刊行しました。

その『南無阿弥陀仏』の冒頭には、このようにあります。

日本の村々を歩くと、南無阿弥陀仏の六字を刻んだ石碑の見当たらぬ地方はないくらいである。(中略)南無阿弥陀仏はまったく梵音なのであるが、今は日本の言葉に溶け込んで、誰一人知らぬ者はない。むしろそれが「無量寿の覚者に帰依し奉る」という意味の方をかえって知らない。それほどの梵語の「なむあみだぶつ」そのままで通る日本語である。

(柳宗悦『南無阿弥陀仏』)

大福寺蔵