柳は、『美の法門』の後記で次のように記しています。

私がこのような思考を組み立てるに至ったのも、美の国を建設したい志願による。かかる王土の具現には、衆生の済度が約束されていなければならない。どんな人がどんな物を作るとも、本来はそのまま美しさの世界に摂取されるように仕組まれていなければならない。とりわけ名もない工人たちが数多く作る民藝品が、必然に救われるその原理がつきとめられねばならない。もし救いの契いがないなら、どうして美の国が可能となろう。(中略)この世にはどんなに多く下凡の性から離れ得ぬ者がいるであろう。だが有難くも、それが誰であろうとそのままで素晴らしい仕事が果されるのである。果せる道があるのである。果せないのが嘘なのである。醜いものはただの迷いに過ぎない。この真理の見届けなくして、何の光明があろうか。この一篇はその信の表明なのである。

民藝文化がどこまでも精神文化たり得る所以は、それが宗教に根ざす限りにおいてである。この根底なくしてどこに正しい民藝論が成り立つであろう。

(柳宗悦『新編 美の法門』「美の法門 後記」)

その後、柳は、『美の法門』の刊行から『無有好醜の願』『美の浄土』『法と美』「仏教美学の悲願」「仏教美学について」を執筆し、また、1951(昭和26)年から1955(昭和30)年にかけて、雑誌『大法輪』に南無阿弥陀仏がもつ意味について連載し、1955(昭和30)年に『南無阿弥陀仏』と題して上梓(じょうし)しました。

『美の法門』から亡くなるまでの12年間を、柳は仏教美学の樹立に全精力を傾けることとなったのです。