記憶の住人
(木全 琢麿 教学研究所助手)
自分にしか聞こえない声、自分にしか見えない光景を誰しもが持っている。記憶から呼び起こされる心象は、どこまでも自己完結的であり個人性を免れない。その意味において、記憶の中を巡るという我々の営為は自分自身との対話である。
折に触れて想い出す、忘れられない記憶がある。
もう十年以上も昔のことだが、祖母が高熱を出して入院することになった。病名が判明すると、すぐに辛い治療が始まった。投薬による副作用で祖母の身体は悲鳴を上げた。でも、祖母は弱音を吐かなかった。それどころか、病室では自分のことより他人の心配ばかりしていた。治療で苦しんでいるときに、「病気になったのが私でよかった」と呟くような人だった。それが本音なのか強がりなのか、もう知るすべはないけれど。
祖母にとって、僕は一番の心配の種だった。大学を卒業した後、僕は定職にも就かずにその日暮らしの生活を送っていた。理由もなく仏教を毛嫌いした。与えられた選択肢を全て拒絶して、自分の殻に閉じ籠ったのである。そんな僕を、いつも祖母は気に掛けてくれていた。僕は祖母が大好きだった。お見舞いには毎日行った。
ある日の病室でのこと。治療中の祖母を励ますつもりで何気なく声を掛けたら、反対に祖母の方から励まされたことがある。お祖母ちゃんは治療を頑張るから、あなたも一歩を踏み出して何か頑張ってみなさい、と。僕はそれを安請け合いした。すると、祖母は微笑みながら言ったのだ。
「それじゃあ、お祖母ちゃんと琢ちゃんの頑張り合いっこだな」
この「頑張り合いっこ」とは互いに頑張り、励まし合い、努力を競い合うという意味の言葉である。実際、本当に祖母は頑張った。辛い治療にもじっと耐えた。しかし、人事を尽くせども天命は残酷である。二ヵ月後、祖母は還浄の人となった。
祖母が亡くなってから、僕は折に触れてその「頑張り合いっこ」という言葉を想い出した。そして、その度に堪らなく情けない気持ちになった。僕は、すぐには変われなかった。祖母の願いに反している、そういう罪悪感だけが募った。
紆余曲折の日々は続いた。僕は一念発起して同朋大学の別科に入学することにした。そこで『教行信証』の魅力を知り、大学院に進んだ。縁があって今年の四月からは教学研究所に勤めている。四十を過ぎて初めて社会人を経験しているのである。しかし、現実はあまくない。社会の厳しさや自分の不甲斐なさに、心は何度もすり潰される。そんな時、ふと「頑張り合いっこだな」と微笑む祖母のことが頭を過る。すると、その言葉は沈んでいる僕の背中を不思議な感覚でそっと押す。以前感じた後ろめたい感情は、もうそこにはない。足枷のようだった記憶の断片は、今や亡き人からのエールとなったのである。
悲しいけれど、僕には頑張り合いっこの相手はもういない。それでも、一人ぼっちの頑張り合いっこはまだ終われない。
(『ともしび』2023年9月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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