人が何よりも執着せんとするものが自己である

法語の出典:毎田周一

本文著者:東 真行(久留米教区常行寺候補衆徒)


自分探し、という言葉があります。少し懐かしい言葉で、今となっては新鮮味を失った言葉のように見えます。しかし、あらためて考えてみると、とても不思議な言葉でもあります。


その不思議さは、自分を「探す」という語感にあります。今さら探すまでもなく、私はもはや現にここにいます。つまり、私たちは自分というものをすでに獲得し、その自分を生きているのです。確かにそのはずなのです。


それにも関わらず、自分探しという言葉には、ひとに訴える実感がこもっているようです。私たちが感じている何らかの思いをその言葉のうえに見ることができるからでしょう。私たちにはすでに自分があるのに、なぜ自分を探し求めるのか、もう一度考えてみたいと思います。


私たちが自分を探すのは大抵の場合、今すでに得ている自分に充分に満足できていないからではないか。私たちは不満を抱えています。現に得ている自分では癒すことのできない渇きのなかにたたずみ、潤うことのない喉が飲むものをつねに求めるように、不安や孤独、虚しさに絶え間なく駆り立てられています。そして、その渇きを一時的に癒そうとして、心から求めてもいないものを自分であると思い誤ってしまう。これが執着です。自分という闇のふたを開けると、どんなどす黒いものが飛び出してくるか自分でもわからないほどです。標記の言葉は、この自己への執着こそ、私というものの根幹に据えられる最も深い執われであると語っています。


私たちは「これが私である」と考えて、色々なものを飲み込んでいきます。自らの身体をはじめとして、金銭や家屋などの物であったり、人間関係であったり、仕事などの能力や名誉であったり、「これが私である」と思えて私を喜ばせるものであればいい。しかし、これらの執着されるものはいずれも壊れていきます。私たちはそもそも生まれながらにして、私たちに属するはずの身体から老い、病み、命を終えることを宣告されています。


さらに引き算で考えてみましょう。金銭を失い、家屋から追われ、人間関係に悩み、能力や名誉と縁が切れてしまう時、私は私でなくなるのでしょうか。そうではありません。裏返していえば、執着する自己が執われであると気づき、確かな自己との見極めがつく時、私たちはやっと胸を撫でおろすことができるのです。


自分を探し求める渇きから逃げ切ることは可能でしょうか。そう思う私たちは遂にどこまでも逃げていきます。しかし、逃げゆく私たちから自己が引き剥がされることはありません。自己は私たちをどこまでも追いかけてきます。実に私たちはそれほどまでに真実の自己を探し求めてもいるのです。つまるところ、自己を探し求める、この心から私たちが自由になる日は来ません。それゆえにまた、執われの自己ではなく、真実の自己を探し求めることこそが、私たちにとっての果てしない一大事なのです。

標記の言葉は「念仏易行─親鸞聖人─」(『毎田周一全集』第二巻、『一真海』所収)のなかに記されています。


東本願寺出版発行『今日のことば』(2020年版【6月】)より

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2020年版)発行時のまま掲載しています。

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