(やみ)()て ~NAGASHIMAの記憶を映画で繋ぐ~(下)

映画監督 宮﨑 賢

  

■コロナ感染症とハンセン病隔離政策の重なり

 映画の撮影時はコロナの問題がありました。撮影記録は9年前から始めていますので、コロナ下の療養所の行動制限で映画製作に支障はありませんでした。

 人権学習に訪れた広島県の高校生と入所者がマスクをして交流する場面では、入所者が高校生から「コロナ下の中での暮らしはいかがですか」と尋ねられ「隔離、隔離と言うが、私たちは孤立ということに慣れているよ。長い間隔離されているから」と応えた言葉が心に響きました。

  

■映像を通しての学び

 戦後生まれの私たちは、戦争の悲惨さは映像で知りました。広島、長崎の悲惨な原爆被害を知り二度と悲惨なことは起こしてはいけないと学んだのです。ハンセン病問題についても同じ過ちを繰り返してはならないと、映画で隔離の負の歴史を残すことにより、・歴史を学び・教訓としてほしいのです。この映画を通して、日本で本当にひどい差別、人権侵害の歴史があったのだと実感し気づくことができると思います。

 昨年、ハンセン病療養所がある地元、瀬戸内市の県立邑久高校の生徒が映画「NAGASHIMA~・かくり・の証言~」を鑑賞してくれました。映画を観た後に「映画を市民や小中学生に観てもらいたい。人権と差別について考えたい」と、高校生が映画の自主上映会を企画して「瀬戸内人権映画祭」を開催したことにより、映像を残せてよかったと実感しました。映画祭の感想の中には「いままで地元に住んでいながらハンセン病の歴史を知らなかった。ハンセン病問題だけでなく、いろいろな差別、人権問題についても学んでいきたい」とありました。

  

■光田健輔医師に対する入所者の感情

 長島愛生園の初代園長である光田健輔さ()が推進した絶対隔離政策や優生政策は、「今から考えれば違法だが、光田さんがいたから自分たちが世間の目にさらされずに暮らすことができた」という入所者の感情があります。しかし、その元にあるのはハンセン病への国民の無関心であり、誤った知識です。

 「人が人を棄てることを容認してきた」(『病棄て─思想としての隔離』島田等)そのものだと思います。島田さんの話では「光田さんは筆まめな人で、いろいろな文書を書き残しているが、長島に橋を架けるということに関しては一行も書いていない」とあります。終生島に患者を閉じ込めて死ぬのを待つ、隔絶の島にしようという政策そのものです。戦時下においても、愛生園では栄養失調や過重労働による死亡者が多く、1945年には332名の入所者が亡くなっています。島田さんが入所者から聞き取りしたカセットテープの中には、元自助会役員が光田健輔園長に「田舎には食べるものがあるから一時帰郷させて欲しい。戦争が終わったら島に帰ってくるから」と直訴したが、それを拒まれたという証言が出てきます。光田さんが入所者の一時帰郷を認めたのは戦後になってからです。これ以上多くの患者が亡くなったら困るという思いがあったからだと思います。映画の証言で、一日に六人も亡くなっていたのを解剖室で見たという入所者の話がありますが、隔離の残酷さを浮き彫りにした貴重な証言です。

  

■「長島の土になってくれ」

 映画の中では入所者から、「火葬場の煙になってしか帰れない」「長島の土になってくれと言われた」という言葉が出てきました。最後はやっぱり、島でたった一度の人生を終わっていくという悔しさはあると思います。みなさん「仲間がいるから納骨堂で眠る」と言いますが、本当にそうでしょうか。

 「長島の土になってくれ」という言葉は、病気が治っても社会には返さないという光田さんの言葉です。祖国浄化、民族浄化政策そのものです。病気や因習を取り払うのが医学や科学ですが、光田さんはそれを最後まで取り払うことなく、因習の上に乗っかったハンセン病医療政策だったと思います。

  

■隔離の中の希望

 映画では、1955年、長島愛生園にハンセン病患者のために設置された岡山県立邑久高等学校定時制普通課程「新良田教室」の同窓会の場面があります。仲間と、同窓生との語らいの中から、隔離や差別の苦しみや悲しみだけではなく、卒業生は「希望。力の泉。」が「新良田教室」にはあったのだと言います。

 映画を通じて、入所者が尊く力強く生きた人生を明るく後半で描きたいと思いました。夏祭り、視覚障害者のハーモニカバンド「青い鳥楽団」や絵画の場面が出てきますが、みんな自分の人生の・生きる術・と潤滑油を見つけていたのです。

  

■名もなき人たちの言葉を伝え続ける

 私が制作した映画ではありますが、これは長島に隔離された・名もなき人たち・が作った映画だと思っています。ハンセン病に無関心だったことの後ろめたさを拭いきれず、ハンセン病問題を40年間継続して伝えてきました。一人の報道カメラマンとして、この仕事を通じて、人間としてのまなこを開いていただき、心を耕していただいたと思っています。

 その恩返しができたらと思い、映画を作りました。上映会を開いてくれた高校生など、若い世代が映画の記録を通して、差別や人権の問題に向き合ってくれることを願います。

  

*日本のハンセン病研究の第一人者であり、生涯、隔離政策の推進と強化を訴え続けた医師。すべてのハンセン病患者を、強制的に、療養所に終生隔離するという考えは、日本のハンセン病政策に大きな影響を与えた。療養所では、患者に対する断種手術等、非人道的な手法も進められた。

  

「NAGASHIMA~・かくり・の証言~」

  

真宗大谷派宗務所発行『真宗』2023年6月号より