関東御旧跡フィールドワーク報告(二)
(御手洗 隆明 教学研究所研究員)

 北陸真宗移民と関東旧跡寺院の調査を目的として行った茨城県フィールドワークについて、前回の那珂市阿彌陀寺に続き、今回は水戸市善重寺(藤本貫大住職)を中心に報告する。水戸では、藤本住職の紹介で茨城県立歴史館を訪問し、のち善重寺での法宝物と史料、移民門徒についての調査を行った。
 

茨城県立歴史館
 

 水戸市は例年より早い梅の季節を迎えていた。茨城県立歴史館では、同館学芸員のしどみ政人氏に案内をいただき、「令和四年度春の特別展 鹿島と香取」を鑑賞した

 鹿島・香取両神宮が影響を与えた地域は、宗祖の手紙に「鹿島・行方」という地名が見えるように、親鸞門流「鹿島門徒」が存在したことでも知られる。ここには古代より「線刻阿弥陀如来鏡像」(鹿島神宮蔵)など神仏が一体となった宗教文化と、水上交通など水郷地帯特有の生活文化があった。この地域を宗祖が教化したことを思いながら、真宗との接点について蔀学芸員と意見を交わした。
 

善重寺の開基善念
 

 善重寺は水戸市郊外の小高い丘の上にあり、境内地からは水戸城址を臨む。二十四輩第十二の善念を開基とする。寺伝によると善念は鎌倉幕府御家人の出身とされ、常陸国桜川(現・桜川市)で水運に携わっていた時に宗祖と出遇い、弟子となったという。師弟となった両者はその時、

廻り逢ふ 始め終りの行衛哉

 鹿島の宮に 通ふ心は   親鸞聖人

桜川 昔の花は白浪の

 流れに映る秋の月かな    善念房

と、喜びを和歌に詠ったと伝わる(大月隆仗『関東聖蹟巡拝記』一四一~二頁、一九三四年)。
 

水戸黄門と善重寺
 

 善重寺では法宝物等を観覧させていただき、あわせて真宗移民についての調査に協力いただいた。最初に法宝物等について報告する。

 江戸期の善重寺は、藩主で御三家の水戸徳川家より信頼され、特に水戸黄門として有名な二代藩主・光圀(一六二八~一七〇一)は厳しい宗教政策をとるなか、東本願寺十六代一如上人(一六四九~一七〇〇)に領内の教化を許し、善重寺を領内の真宗寺院筆頭格として「触頭」に選び、現在地へ寺基移転させるなど重く用いた。

 善重寺十五代住職念了(一六二五?~八六)の「念了一代記」【図1】は、光圀が「木造聖徳太子立像(孝養像)」(鎌倉時代)を文化財保護の観点から領内の浄土宗慈願寺(廃寺)より召し上げ、寛文十一(一六七一)年、善重寺に移座したと記す。なお、慈願寺は宗祖の門弟・善明を開基とする元真宗寺院とも伝わる。

 この太子像は、京都の仏師・朝円が制作した可能性があることから、京都から関東へ伝来したとする見方がある。また真言律宗の太子像として京都で制作され、のちに関東へ伝来した可能性もあることが近年指摘されている。前回報告した阿彌陀寺旧蔵の恵信尼絵像同様に、ここでも法宝物の移動があった。

 太子像移座の翌年(一六七二)、光圀はさらに聖徳太子絵伝を寄進した。同寺所蔵の、聖徳太子六角堂建立場面を描いた「聖徳太子絵伝断簡」(南北朝時代)がそれにあたるという。

 また「念了一代記」は、光圀が寛文元(一六六一)年の宗祖四百回御遠忌に際し、念了を通して多額の懇志を東本願寺に収めたと記す。藤本住職によると、光圀の厚遇は領内支配のためであったが、仏教美術の保護については先進的な考えをもっていたという。

【図1】念了一代記


太子堂
 

 太子像を安置する太子堂は、明治元(一八六八)年の天狗党の乱により堂宇と共に焼失したが、太子像はあらかじめ避難していたため無事であった。太子堂は岡倉天心が渋沢栄一らの支援を受けて再建した。「太子堂再建随喜名簿」は、支援した著名人五六二名を記した再建記録である。

 太子堂を拝見すると、堂内中央の台座に太子像が安置されていた。藤本住職は「善重寺の太子像は正面から見ると厳しい表情に見えるが、下方から見上げると慈悲深い表情になる」と語った。現在、太子像は国の重要文化財に指定され、毎年一度、聖徳太子の命日である二月二十二日に開帳されている。
 

北関東の拠点として
 

 「教如上人書状」・「下間頼龍書状」の書状写本二通には、戦国時代の善重寺が、織田信長と戦う大坂本願寺の十一代顕如を支援したこと、のちに十二代教如の東本願寺創立を支えたことを記す。この史料二通には解読があることもご教示いただいた(名古屋教区教化センター『センタージャーナル』一〇六号掲載の小島智氏報告、二〇一八年)。

 また、明暦四(一六五八)年の明暦度御影堂造営に関する記録があり、この史料は富田教行寺「御影堂御遷座記録」(『真宗本廟(東本願寺)造営史』六三六頁以下、二〇一一年)の善重寺版といえる。どちらの史料にも、遷座の御輿を担ぐ寺院のなかに善重寺の名が見えており、江戸初期の本山と関東寺院の関係を知る上で重要な記録である。
 

真宗移民
 

 善重寺調査のもう一つの目的は、江戸後期に北陸地方から相馬中村藩領(現・福島県相双地方)に入植した相馬真宗門徒の足取りを知ることである。天明の大飢饉(一七八一~八九)で荒廃した北関東復興を目的として幕府・諸藩による移民政策「入百姓」が始まった。移民には真宗門徒が多くいたと考えられ、真宗の信仰と生活を保持し家族で移住した門徒農民を、いわゆる労働移民と区別して「真宗移民」と総称している。

 特に加賀前田藩領内の越中門徒(現・富山県砺波地方)は、笠間藩(現・茨城県笠間市)から水戸方面に展開したと考えられ、稲田の西念寺と林照寺、宍戸の大谷派唯信寺などは宗祖門弟による開基と真宗移民による復興を寺伝とする。この移民門徒は文化八(一八一一)年以降に相馬中村藩領内に受け入れられている。これまでの調査(拙稿「真宗移民の歴史に学ぶ」『教化研究』一五七号、二〇一五年参照)では、水戸から相馬への移民門徒の足取りが不明であったが、善重寺門徒に移民門徒の子孫がいるという。幕末の九代藩主斉昭の時、善重寺は願入寺と共に、藩の新田開発事業における移民門徒の受け入れ寺院であった。
 

水戸藩の移民門徒
 

 今回、藤本住職の紹介で、北陸出身の先祖をもつ門徒の方々にお話を聞く機会を得た【図2】。小川謙市氏(善重寺責任役員)によると、先祖は新潟県三島さんとう郡からの移民であり、刈り取った稲を干す「オダカケ」などの農業技術を持ち込み、文政五(一八二二)年頃より新田開墾に尽力した。その土地を出身地にちなんで「三島みしま」と名づけたという。相馬の真宗移民同様、勤勉な移民門徒はここでも従来の領民との対立に苦しんだが、「真宗の信仰に支えられた」と小川氏は語り、地域史として『東茨城郡町村合併誌』(一九五六年)をご教示いただいた。

【図2】小川謙市氏宅

 善重寺という引受先があった水戸藩の移民門徒と、真宗寺院がほとんどなかった地域に真宗を根付かせた相馬真宗門徒との違いはあるが、住む土地が変わっても真宗の生活を守り続けたことは共通する。水戸藩から先の真宗移民の足取りはつかめなかったが、実地に見聞することで、法宝物も人間同様に移動することをここでも知った。

(教学研究所研究員・御手洗隆明)

([教研だより(203)]『真宗』2023年6月号より)※役職等は発行時のまま掲載しています