ハンセン病を問う 下

岡崎教区安樂寺前住職 伊奈 祐諦

  

一、秘められた叔父の存在

 私が叔父伊奈教勝の存在を父から聞いたのは、高校生の時でした。「お前には内緒にしていたが、私の下に弟がいる。今、瀬戸内海に浮かぶ長島愛生園にいる。しかし、このことは決して外には言ってはならない。人から尋ねられても言ってはならない」ということでした。父の厳しい言葉には何も言えませんでした。その後、叔父について決して外に話すことはありませんでした。家族の中で叔父のことを名ではなく「岡山」と会話してきました。叔父は家族の一員ではなく、「岡山」と呼ばれてきました。

 私は1973(昭和48)年5月16日、結婚しました。しかし、叔父については妻に内緒で結婚しました。兄弟3人、いずれも結婚式には叔父の存在はありません。叔父の存在を隠すことにおいて、今の平安を守ろうと生きてきました。祖父が我が子教勝に対して、厳格な態度で接してきた心が、私の家族の生き方でした。「お前はかわいい、しかし、病気は憎い」。その言葉のもとに、私たち家族は生きてきました。また、親戚も叔父のことに触れることはありませんでした。

 私は結婚して18年間、ずっと妻には内緒にしてきました。しかし、叔父は1989(平成元)年4月、捨てたはずの本名、伊奈教勝をとりもどして、本名を名告りました。叔父の本名の名告りは、ハンセン病に対する差別と偏見を打ち破る波となって、私たち家族や親戚に迫ってきました。

 叔父の名告りを受け、いち早く行動を起こしたのが、弟の中村薫夫妻でした。夜分、2人は実家の両親に叔父のことを尋ね、今までの平安とは何か、厳しく問いただすことになりました。一方、私の妻は弟夫婦の厳しい問いにもかかわらず、今、何故、そのことが発覚したのか、今まで私一人、叔父の存在を知らされず、私は騙されてあなたと結婚したのかと憤り、悲しむのでした。その時、私の丁寧な説明も謝罪も妻に一言もありませんでした。それどころか、今までそのことが言えなかった自分の苦しみと悲しみが、お前にはわかるかと、妻を罵る言葉しかありませんでした。

  

二、ハンセン病と告知された家族の葛藤

 私の妻は結婚して18年、叔父教勝の名告りを受け大変苦しみ悩みました。お寺の婦人会の親しいお同行や地域婦人会のお友だちに自身の苦しみを相談しました。しかし、そのことは家族の私たちには話しませんでした。妻は伊奈家の家族から一人孤立して、一人悩んでいました。夫婦といえども相手を互いにいたわることができませんでした。

 叔父の名告りは、多くの人々に希望と勇気を与えてくれましたが、ハンセン病に対する偏見と差別の体質は、容易に動かすことができないと痛感いたしました。病気が治っても療養所を出られない。あなたは我が家ではいないことになっている。そして、亡くなってもお骨は家族のもとには帰れない。家族との隔絶を強制された「らい予防法」によって、永年、患者とその家族は苦しめられつづけ、人権を奪われてきました。1996(平成8)年、国会にて「らい予防法」が廃止され、人間回復の道の第一歩が開かれました。叔父は生前、「らい予防法」の廃止を見届けることはできませんでしたが、この法律の廃止を確信していました。1995(平成7)年12月26日未明、「ありがとう」を最後に浄土へ還りました。享年73歳でした。

 私は妻の家族に救いの手を求め、実家の母に手紙を書きました。手紙の一部ですが、当時の苦しみと迷いの姿を感じとっていただければと思います。

 前略ご無礼致します。先般は突然お電話にて失礼致しました。岡山の叔父伊奈教勝の本名の名告りによって、時代の流れとはいえ、家族の中で、叔父の事に話が触れますと、有難いなあという喜びと、四十年黙って(騙して)きたものを今さら、何故、世間に公表するのかという意見で、私も感情的に悦子に怒鳴ってしまいます。言葉は売り言葉に買い言葉、二十一年間の結婚生活のよろこびも、ふっとんでしまう状態です。怒鳴る言葉は憎悪しかありません。今、岡山の叔父の問題がなかったら世間一般の幸わせな家庭といえましょう。しかし、その幸わせも有難いか知れませんが、岡山の叔父を通してなげかけられた苦しみをどうぞして、すばらしい世界へと出させていただきたいと思います。今、悦子を責める心は、ただ憎くして責めるのみではありません。四十年たって、やっと、今「らい病」の恐怖から解放されようとしているのが、叔父の本『ハンセン病・隔絶四十年 人間解放へのメッセージ』であります。この本を今、一番喜んで読んでいて下さるのは、葬式にも参ってもらえず、今日の日を見ることのできなかった叔父の父教順、母ゆき江であったかと思います。

 悦子のことを一番案じておられるお母さんには是非この事はお伝えいたしたくお手紙を書きました。今までの進め方について、何故、結婚の時、まず、そのことを私(祐諦)自身が、悦子に直接言わなかったのか、大変申し訳ありませんでした。その時、私はそれを言うと結婚話がこわれると恐れたからでした。だから、悦子も同じように、今もその事を三人の子供達に母親として案じているのです。しかし、今、その心配は晴天の霹靂のものとなりました。私が悦子にきつく言うのは、「ここに立て!」というのです。一方的なことばかり申し上げましたが、実家のお母さんのお力を接に念願して、筆を置くことといたします。合掌

  平成六年九月九日

   小島 安樂寺 伊奈祐諦

  母上様

 本年1月1日、結婚して49年半、最愛の妻悦子は、6年間の闘病の末、74歳にてお浄土へ還っていきました。妻への介護は私が妻を苦しめてきた、そのわずかばかりのお返しでした。叔父伊奈教勝の本名の名告りは、私たち夫婦にとって避け難い人生の課題でありました。叔父の名告りは、叔父自身の人間回復の証であると同時に、叔父の存在を隠しつづけた家族の人間回復でなければならないと、今あらためて思うのです。

  

真宗大谷派宗務所発行『真宗』2023年12月号より