座談会「いま 伝えたいこと つないでいくこと」(後)

山陽教区光明寺 玉光 順正

東北教区蓮心寺・「ハンセン懇」委員 本間 義敦

富山教区正覺寺・同委員 見義 智証

名古屋教区圓福寺・同委員・司会 加藤 久晴

  

お見舞いに行こう

加藤 玉光さんは、ハンセン病療養所へお説教をしに行ったのではなくて、交流をしに行ったと言われていましたが、入所者の方々も高齢で年々亡くなっていかれる中で、これからの交流についてどう思われますか。

玉光 お見舞いに行けばいいと思います。実際に、一緒に交流することができないようになってきました。大きなセンターと呼ばれる施設に入っている方や、自室に一人でいる方もおられます。何でも一人で生活できるかというと、そうでない方もたくさんおられるわけです。例えば、長島愛生園では、八百人ほどいた入所者が、今は九十人ほどにまで減っています。私たちがハンセン病問題から何を学ぶのかということを、今だからこそ、しっかりと考えなくてはいけません。各療養所で入所者の方の最後の聞き取りを行うことも大切であると思います。

加藤 全国の入所者の最後の一人が亡くなった時点で、ハンセン病問題は終わったこととするのかという問いがあります。そこで大谷派がハンセン病問題の取り組みを終えてしまったら、それこそ国が進めた隔離政策を完成させてしまうことになるのではないでしょうか。

本間 以前、松丘保養園での交流会で自治会長と話をしていた時に、「関わったのだから、最後までやろう」と言われたことを思い出します。最後までとは、一体どこまでが最後なのか。私の中では終わりがないというか、ハンセン病問題「を」学ぶだけではなく、自分自身や社会の様々な問題について、ハンセン病問題「に」学び続けていくということではないかと感じています。

玉光 そういったことは、「終わらないことだけが始まった証拠」であると表現できるのではないでしょうか。たゆまぬ歩みを続けていくという気持ち、姿勢があって初めて、本当の歩みが始まったといえると思うのです。

  

一緒に考える

見義 昨年十月に開催された「ハンセン懇」の総会では、療養所の建物や入所者の方々が育てた木々など、人が生きていた証に実際に触れるためのフィールドワークに力を入れていくことも大事ではないかという話が出ていました。入所されている方がおられる間は、玉光さんが言われているお見舞いというかたちも含めて活動ができると思いました。でも入所者の方がおられなくなったときに、どういう形で活動できるのかということは、今から一緒に考えていきたいです。

玉光 そのことをもっと入所者の方や関わっている人たちに聞いたらいいと思います。こういうことについてどうしたらいいでしょうか、一緒に考えてみませんかと。自分だけで考えていても、たいしたことは出てきません。返事が戻ってくるかは別として、今一緒に考えようということが大切ではないでしょうか。

加藤 今だからこそ、これまでの交流では聞けなかった本当の声が聞けるかもしれません。本当に伝えたいことを聞くチャンスが残っているのかもしれません。

見義 それが「ハンセン懇」の仕事であり、全国を第一・第二・第三連絡会に分けている意味であると思います。各連絡会が療養所に行った時に、どうしたらいいでしょうかと聞いてみるといいですね。たとえ教区の中に療養所がなかったとしても、個人では到底行けないと思っていても、研修会などを開いて一緒に考える場を作ったり、つながりをもてるネットワークの必要性をあらためて感じました。

  

出会いが、自分の生きる姿勢を問いかけてくれる

玉光 ハンセン病問題だけでなく、私たちは生きている限りいろいろな問題が起こってきます。その時に、例えば、自分がハンセン病問題に対して、このように取り組んできたとか、考えてきたという経験は、どのような問題であっても参考にならないはずがありません。その問題と関わっている人たちと出会った時も、ハンセン病問題に取り組んだ経験を踏まえて語り合うことができる。そういうものが自分の中にあるのかということです。

本間 新型コロナウイルス感染症に関しても、罹患したことで引っ越しをしなくてはならなかった人、偏見に晒された人が多くおられました。東日本大震災での原発事故の後も、車が福島ナンバーだからと差別された方がおられたと聞きました。でも、そのことをまるでなかったかのように忘れていってしまうことが、一番恐ろしいと思います。

玉光 一人ひとりがハンセン病問題から何を学んだのかということを、明確にしておく必要があります。各療養所の入所者の人数も減ってきて、感染対策により療養所にも今までのようには入ることができない状況の中で、ハンセン病問題が歴史の中で何を残してくれたのか。そのことは、コロナや他の感染症問題と繋げて考えられる部分もあるはずです。いろいろな人との記憶が、自分の中に残っていることがあります。普段は意識していなくても、ふっと出てくることはありませんか。人と人との出会いが、自分の生きる姿勢そのものを問いかけてくれているのです。そこには、言葉があります。口で言う言葉とか、書く言葉だけでなくても、出会いの中で与えられた、感じたものがあると思います。そういうことが、本当に自分の中にあるのかということではないでしょうか。

加藤 ハンセン病問題をなかったかのようにせずに今後も継承していく中で、具体的には、そこで出会った人の姿を通して、自分の生き方や社会の在り方、ひいては教団の在り方を問い続けていくことの大切さをあらためて感じました。今日は皆さん、ありがとうございました。

  

真宗大谷派宗務所発行『真宗』2024年6月号より