疑謗を縁として
                    (『真宗聖典 第二版』 四七六頁)
(教学研究所助手・木全琢麿)

幼少期、寺での暮らしの中で抱いた様々な生活感情は、歪なかたちで蓄積されていき、いつの間にか仏教に対する偏見を私に芽生えさせた。およそ偏見の多くが負の感情に基因するように、仏教や親鸞聖人に対する私の眼差しも嫌悪や疑惑に近いものであったと思う。お蔭で、寺に生まれたという現実も一つの“仏縁”であると頷くのに少々時間を要した。
 
人生に行き詰り、三十二歳の時に導かれるようにして同朋大学の別科に入学した。そこではじめて『教行信証』にふれるという利運に恵まれた。爾来、この書をくり返し何度も読んだ。全巻を通読したり、一文を精読したりして、何とかしてこの書のこころを掴もうとした。言うなれば一つの巨大な山を遠くから眺めてみたり、時には山道に分け入ったりするようにして聖教を捉えようと試みたのである。しかし結局、私は何も掴めずに現在に至っている。信仰の核心は正体を見せず、答えのないまま問いだけが増えていく。幼少期に抱いた親鸞聖人への疑惑は、より複雑な色彩と模様を成して保存されたままである。
 
そんな私にとって、信仰に迷う度に立ち返る言葉がある。それが、表題に示した「疑謗を縁として」の一句である。その全文を記す。


 
若し斯の書を見聞せん者、信順を因とし、疑謗を縁として、信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さんと。

 

これは所謂「後序」の文である。これまで、この「疑謗」には多岐にわたる註解が施されてきた。専修念仏への弾圧を背景に見るものや本願への不信など解釈は多様であるが、私自身はこれを自分の信仰態度に照らし合わせて拝受することにした。つまり、「疑謗」の内実を我が身の実相だと考えたのである。少し大袈裟な物言いになるが、仮にこの言葉が『教行信証』に記されていなければ、私は安心して真宗門徒でいることはできないのではないかと思う。疑うことを抜きにしては真宗と繫がることのできなかった者にとって、この言葉は信仰の寄る辺となっていたのである。
 
私は真宗の僧侶として親鸞聖人を疑う。しかし、親鸞聖人を虚妄の説人とは思わない。この人の言葉の内奥には琴線にふれるものが確かにある。それは私のあずかり知らない何かである。その何かを「真理」の一言で片付けられないのは、教理に迷う浅学の念仏者の哀しい性分であろう。
 
疑って疑って疑いきれなくなったところに開けてくる信仰はあるのだろうか。そんな邪な心で今日も親鸞聖人を疑っている。けれど、疑うことを止めてしまえば、その後に残るのは真宗への惰性と無関心だけではないかと思う。ならば、この「疑うこと」にも何かしらの意味はあるのではないだろうか。
 
「疑謗」によって結ばれる縁とは如何なるものなのか、私には判然としない。ただ、仏教を通して様々な人と出遇い、様々な問いをもつことができた。この点において、これは良き縁であったと信じている。


(『真宗』2024年11月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
 

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