いま 光が
とどいたのではない
光に遇わなかっただけだ (吉岡妙子・作)
ふだん通い慣れた道を歩いていると、周囲の景色を見すごすことが多いのですが、ふと路傍に可憐な花がひとかたまりに咲いているのを目にとめ、感動することがあります。俳人芭蕉の、
よくみれば 薺花咲く桓根かな
という句が想い出されます。
芸術は、驚きからはじまるといわれます。それは、芸術にかぎりません。ニュートンは、木から林檎が落ちるのをみて、万有引力の法則を発見したと伝えられます。科学も驚きからはじまるといえるのでしょう。
宗教の場合はどうでしょうか。仏法を聞いて、気持ちが明るくなった――。そういう体験はどなたにもあると思います。信心も、照らされた身であった、との驚きからはじまります。
浄土三部経には、間断なく照護したまう光の仏、すなわち阿弥陀仏の大悲について説かれています。それゆえ阿弥陀仏は、不断光仏とも称えられます。その仏の大悲の光について、源信僧都は、
大悲倦(ものう)きことなく、常に我を照らしたまう。
と述べておられます(「正信偈」所引)。阿弥陀如来の悠久なる光は、遠劫の昔から私のうえに降りそそいでいるのだ、と。
しかし無倦(むけん)の大悲の光明も、私たちが無自覚のかぎり、とどいたとはいえません。法然上人が、月の光にこと寄せて詠われた歌が想い起されます。
月かげの
いたらぬさとは なけれども
ながむる人の 心にぞすむ
私たちが阿弥陀仏の本願の教えに頭がさがったとき、はじめて光がとどいたといえるのです。教えの真実に頷いたとき、まさに「万劫(まんごう)の初事(はつごと)」ともいわれる大きな驚きに包まれ、深い感動がこみ上げてきます。
私たちが仏法に出遇うのは、さまざまなご縁に導かれることによってです。仏法への驚きと感動は、念仏の信心として相続されます。出遇いが一時の驚きや束の間の感動に終わらないのは、これを憶念する信心によります。法然上人は、日ごろ七万遍もの念仏を称えておられたと伝えられます。それは、まさに上人の憶念相続の信心を伝えているものとうかがわれます。
親鸞聖人は、
光明てらしてたえざれば
不断光仏となづけたり
聞光力のゆえなれば
心不断にて往生す
(「浄土和讃」『真宗聖典』479頁)
と讃詠しておられます。遇光の驚きと感動は、本願の光のはたらきをつねに聞思することにおいて、往生の生活へと開かれるのだ、と。
いよいよ聞法の生活へとこの身を運ばなければなりません。
『今日のことば 2006年(表紙)』 「いま 光が とどいたのではない 光に遇わなかっただけだ」
文:安冨信哉(教学研究所長・大谷大学名誉教授)