念仏は苦悩を
避けるのではなく
乗り越える力
(作者:光山道潤)
私たちが生きている、この世界には、本当にたくさんの「宗教」があります。そして、どの宗教も救いを説いています。だから、人は、生きている中で問題を抱えますと、その問題の解決を求めて、いろいろな宗教に関わりを持つことになります。そういう意味で、人間の苦しみの数ほど宗教があると言ってよいかもしれません。しかし、そのとき、私たちが問題にしなければならないことは、苦しみの原因を正しく知るということです。そのことが曖昧であれば、救いを求めることが、いよいよ迷いを深めることにもなってしまいます。
親鸞聖人の「愚禿悲歎述懐」という和讃の中に、
かなしきかなや道俗の
良時吉日えらばしめ
天神地祇をあがめつつ
卜占祭祀つとめとす
(『真宗聖典』509頁)
というものがあります。「悲しいことだ。この世に生きる僧侶も在家の者も、せっかく仏の教えに縁を持って生きる者になりながら、いったい何をしているのだろうか。時を選び日を選び、さまざまな神々を敬って、占ったり、お祓いをしたり、お祀りをもっぱらとしている」と、親鸞聖人の悲しみ歎きが述べられています。実は、ここで悲しみ歎かれているのは、現在を生きる私たちの姿でもあるのです。
私たちは誰もみな、何よりも確かなものとして、「私」というものを支えにして生きています。だから、生きるということは、この「私」の、こうしたい、こうなりたいという欲求を実現することだと思っています。一言で言えば、自分の思いどおりになることが、生きることの幸せと考えているのです。だからまた、自分の思いどおりにならないことが、苦しみになるのです。
このように自分の思いというものを中心に、私たちは、「鬼は外、福は内」と、ひたすら自分の思いどおりになることを求めて生きているのです。だからこそ、「時を選び日を選び、さまざまな神々を敬って、占ったり、お祓いをしたり、お祀りをもっぱら」としなければならないのです。
ところで、どうでしょうか。現実の自分自身は思いどおりになるものでしょうか。私たちは、例外なしに、老病死する身を生きています。だから、本来思いどおりにはならないのです。また、私たちは、多くの人たちと共に生きています。共に生きている人たちも、思いどおりにはなりません。このように、どれほど思いどおりになることを求めても、思いどおりにならない、自分自身と多くの人と共に生きなければならないことになってしまいます。結局のところ、どうしてこのような自分になってしまったのか、どうして誰もわかってくれないのか、という歎きの中で、かけがえのない人生を終わることになってしまうのです。この「私」の思いどおりに生きようとするところに、苦しみの原因があるのです。そして、「えらばず、嫌わず、見捨てず」の阿弥陀如来の大悲に目覚めて生きる者のところに、自分をも人をも見捨てない、確かな生き方が成り立つのです。
中川皓三郎
『今日のことば 2006年(2月)』
「念仏は苦悩を 避けるのではなく 乗り越える力」
作者:光山道潤
※役職等は『今日のことば』掲載時のまま記載しています。