私を生かしておる力というものに帰っていく歩み それが仏道

法語の出典:宮城顗

本文著者:黒田進(京都教区満立寺前住職)


ここに「仏道」という言葉があります。仏道と聞くと何か特別な道、特別な人の歩める道のような先入観が、私たちにはあるのではないでしょうか。しかし、この宮城顗(みやぎしずか)先生の言葉は、そのような私たちの固定観念を破って、日々の生活の中にこそ実は仏道というものが開かれているのだ、ということに気づかせてくださる言葉ではないかと思います。

かつて先生は、時々お話の中で他力の生活、自力の生活ということを言われました。「他力の生活というのは、他をあてにするとか何にも努力をしないということではない。何かができること、努力ができることをよろこぶ生活、恩徳をたまわっていることをよろこぶ生活である。それに対して、自力の生活というのは、自分の力をたよりにし、自分の思いに立って自分のしたこと、努力したことを他に誇る生活である」と。

振り返ってみれば、私たちは、日常生活の中ではつい自分のしたことを自慢したり、他人の評価を期待して一喜一憂してしまいます。そして、はかりしれないおかげをいただいていることなど気づかないで、当たり前にしているのでないでしょうか。そのようなあり方に対して、空気や水、食物、身のまわりの人びと、またこの自分の体そのものなど、何一つ当たり前のものなどないことに気づかされていく生活を、他力の生活という言葉で先生は教えてくださいました。

その意味では、自力の生活とは、他力を忘れた生活、おかげをいただいていることに気づかない生活のことを言うのでしょう。この「私を生かしておる力というものに帰っていく歩み」というのは、他力、おかげに気づかされていくそのような生活であり、そこに仏道というものが開けているのであると教えてくださっているのではないでしょうか。

ところで、寺におりますと、常に本堂のお花のことが気にかかります。私は花立ての素養がないもので、いつも苦労しながら立てております。若い頃は、うまく立てられず、花を立てているのやら腹を立てているのやらわからないことが度々でした。それでも何とか立て終わり、お内陣に据えて本堂に座って眺めておりますと、心がしずまり、しみじみとしたよろこびに包まれてきたものです。

過日もそんな若い頃のことを思い出しながら、身の回りにあった花材で花を立てお(かざ)りしてから本堂に座りました。その時ふとこの宮城先生の言葉がうかんできたのです。ああ、そうであった。花を立てたりお掃除をすることを通して、実は私自身がお育てをいただいてきたのだなあと。日々の生活の折節に、そういう気づきをいただいていく生活「それが仏道」であると、宮城先生の言葉はお示しくださっているのでありましょう。

先生はまた折にふれ、「仏法不思議」という言葉をとり上げてくださって、「〝仏法不思議〟ということは、手を合わすはずのない私が、いま手を合わせていることの驚き、念仏するはずのない自分が、いま念仏申していることの感動をあらわす言葉ではないであろうか」と、よくおっしゃっておられました。今月のこの言葉とともに合わせて思い出されてまいります。


東本願寺出版発行『今日のことば』(2021年版【1月】)より

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2021年版)発行時のまま掲載しています。

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