「わたし」が仏に成るということ
古田和弘(九州大谷短期大学名誉学長)
『涅槃経』というお経の根本となる教えは「一切の衆生に悉く仏性あり(一 切衆生悉有仏性)」ということであります。すなわち、すべての人々に、例外なく、仏としての本性が具わっているということであります。仏としての性質が具わっているから、仏ではない凡夫が間違いなく仏に成るのです。これが『涅槃経』というお経の根本の教えなのです。
たとえばオタマジャクシは、どう見ても蛙には見えませんが、オタマジャクシはそのままで必ず蛙になるのです。オタマジャクシは蛙にしかならないのです。わたしは誰が見ても仏には見えません。他の誰よりも、わたし自身、わたしは仏であるなどと思ってもいないのです。しかし、わたしは必ず仏に成ると教えられているのです。なぜ必ず仏に成るのかといえば、それは、わたしに仏性、すなわち仏としての性質が具わっているからだと、『涅槃経』は教えているのです。
釈尊は、覚りを得て仏に成られたお方でありました。しかし、当然のことながら、仏に成られるまでは仏ではなかったのです。つまり、それまでは凡夫であったわけです。仏でない凡夫が仏に成られたのです。わたしたちの世の中には、目覚めて迷いのなくなった仏と、目覚めていないで迷っている凡夫の二種類しか存在しないのです。その中間はあり得ないのです。しかも、目覚めるということと、迷いがなくなるということとは、実はひとつのことなのです。目覚めていないということと、迷っているということとは、やはりひとつの姿なのです。そして、目覚めないで迷っているということは、このまま目覚めずに迷い続けるか、それとも、目覚めて迷いから離れるか、そのどちらかでしかないわけです。目覚めていないからこそ、目覚めるということが起こりますし、また迷っているからこそ、迷いがなくなるということが起こるのです。これが道理です。その道理によって、すべての凡夫が仏に成ることが願われているわけです。凡夫であるわたしに仏性があるということは、そういうことなのです。
『涅槃経の教え―「わたし」とは何か―』(東本願寺出版)より
東本願寺出版発行『真宗の生活』(2021年版②)より
『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2020年版)をそのまま記載しています。
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