願われている自分にであう-まさかさかさま-
著者:香川 秀夫(山陽四国教区蓮忍寺)
今年もお盆を迎えようとしています。お盆の歴史は古く、『日本書紀』にはお盆の始まりと考えられる記述があります。そして長い年月を経た現代でも地域ごとにさまざまな行事があります。それは私たちの亡き人を想う素直な気持ちの表れであろうと思います。
お盆は仏教行事のひとつとされていますが、それは『仏説盂蘭盆経』というお経に由来します。そのお経には、お釈迦さまのお弟子、目連尊者が神通力を使って見た、餓鬼道に堕ちた自分の母親を救うために、お釋迦さまの教えを受けて、修行に励んでいる僧たちを食べ物などで供養したことによって母親を救ったというエピソードが語られています。諸説ありますが、お盆はその食べ物を盛った盆のことを指すと言われています。また、別の諸説のひとつには、古いインドの言葉ウランバーナを音訳した「孟蘭盆」の意味として「倒懸」という言葉が伝わっています。「さかさまに吊られている状態」ということです。お盆という言葉には「さかさま」という意味が含まれているのです。
「亡くなった方の死が安らかなものであってほしい」、それが私たちの亡き人を想う素直な気持ちではないでしょうか。『盂蘭盆経』における目連尊者の気持ちも同じだったはずです。それはとても大切な尊い気持ちだと思います。そして生きている私たちから亡き人へ懸ける気持ちは、「私→亡き人」という矢印で向かっています。
「亡き人を案ずる私が、亡き人から案ぜられている」という法語があります。「亡き人を案ずる」というのは私から発せられる気持ちの矢印。「亡き人から案ぜられている」というのは亡き人から発せられる矢印で、「亡き人→私」という気持ちの矢印があることに気づいてほしいという願いが表現されているのでしょう。
親鸞聖人の和讃に、
如来の回向に帰入して
願作仏心をうるひとは
自力の回向をすてはてて
利益有情はきわもなし
「正像末和讃」(『真宗聖典』六一二頁・初版五〇二頁)
とあります。気持ちを発する矢印を仏教の言葉では「回向」と言います。如来(仏さま)からの私に向かう矢印(願い)に気づいてほしいということです。
お盆に限らず、私たちがお参りする時は、どうしても私から仏さまや亡き人に向かう気持ちが先立ちます。場合によっては私の都合が優先するということもあるでしょう。私の都合ということを親鸞聖人は「自力の回向」と指摘され、「すてはてて」と仰っています。私のことを振り返れば、生き方そのものがずっと自分の都合、つまり自分が発する矢印を振りかざして、好き勝手にしてきたように思えます。今も気がつけばそうなっています。簡単にすてられるようにも思えません。しかも、私に懸けられ、案ぜられている矢印、願いはそんな私には見えず、まさか、さかさまの矢印があるとはなかなか気づけません。「まさか、さかさま」は上から読んでも下から読んでも同じ(回文)になりますが、私が発する矢印とともに、常に私自身に矢印が届けられているのです。いつも当たり前に見ている方向が逆転させられる、そこには思いがけず見せられた、願われているまさかの自分のすがたがあるのではないでしょうか。
想う身が想われている。願う身が願われている。私に向けられた願いは、南無阿弥陀仏のお念仏として私に呼びかけられ、それに気づいた私がお念仏で応答することを、仏さまや亡き人はずっと待ち続けてくださっています。お盆は亡き人に想いを懸けている矢印にある、私に向けられた「さかさま」の願いを考えてみる大切な機縁なのです。
東本願寺出版発行『お盆』(2021年版)より
『お盆』は親鸞聖人の教えから、私たちにとってお盆をお迎えする意味をあらためて考えていく小冊子です。
本文中の役職等は発行時のまま掲載しています。
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