九州教区真宗寺 野口清香


いつからでしょうか、日々の生活が苦しいのです。お寺で生活していても仏事や法要をどこか遠くに感じていた私がいました。そういった思いからも目を逸らし、日々の生活の忙しさでごまかしながら生きてきました。

結婚してから今年で7年が経ちます。その間に4人の子どもに恵まれ、幸せいっぱいかといわれるとそうかもしれません。けれども、家庭生活や子育てに追われる日々に、自分の人生や生活を振り返る時間どころか、ますます仏事や教えを聴聞する場からも遠ざかり、夫婦で協力したいという気持ちすらも持てない自分がいました。私の中にある劣等感や素直になれない心と、夫のそのような心がしばしばぶつかり合うのです。日々変わらない生活を繰り返すことのもどかしさやイライラに不満だけがつのり、お互いの存在の有り難さに全く気づこうとも知ろうともしない私がいたように思います。

しかし、そんな私にも仏様の教えが見捨てる事なく呼びかけ問いかけていたのです。仏教の願いを持って国を治めようとした聖徳太子は、

人皆心有り。心おのおの()れること有り。彼是(かれよみ)すれば我は(あしみ)す。我是すれば彼は非す。我必ず(ひじり)に非ず。彼必ず愚かに非ず。共に是れ凡夫(ただひと)ならくのみ。(「十七条憲法」『真宗聖典』九六五頁・第二版1157頁)

と伝えています。人はみな自らの思いにとらわれており、自分が正しく、相手が間違っているのではなく、共に凡夫(ぼんぶ)であると。

また、竹中智秀氏の言葉に、

家へ帰れば安心して凡夫になれるわけです。(中略)煩悩まる出しのどろどろの凡夫のままで、お互いに生きあうわけです。しかし、そういう中でも、なおかつ尊敬しあえるということは奇蹟のようなことです。実はその煩悩まる出しのどろどろの、そういう私たちがお念仏の力によって浄化されるんです。それは私たちの力ではありません。本願力なんです。

(『いのちをたずねて―私は何をよりどころに生活しているか―』六一頁)

と、ありました。

夫婦である前に共に凡夫の身を生きていたのです。それぞれが心を持ち、さまざまな感情を抱き、何かに執着し生きているものを凡夫というのですと呼びかけられています。それが人間であり、私も何かに執着した一人の人間であって、夫もまたそのような人間であるという事実を思い知らされました。

しかし、そういった煩悩まる出しのどろどろとしたもの同士でも共に生きられる世界があるのですよと。そういったもの同士が夫婦になっても分かり合える世界があるのですよ、と仏様は呼びかけられています。

共に生きるとは、思い通りにならない私と思い通りにならないあなたが、共に仏様の願いに照らされ、身の事実に立ち「だからこそ」と、お互いに言葉を尽くし、出遇っていくことを諦めない歩みです。

夫婦になり、子を授かり、変わりゆく生活の中で他者との出会いは増えてきましたが、私は本当にその方々と出遇えていたのでしょうか。自分の思いというフィルターを通してしか出会えていなかったのではないでしょうか。しかし、私の足元には、安心して「ありのままの私」と「ありのままのあなた」が共に生きられる「ここ」がはじめからあったのです。私たち人間が本当に願うのは、思い通りになる理想の世界ではありません。

私たち人間の真実の願いは、思い通りにならない自分と思い通りにならない他者をそのままに引き受けて、通じ合っていきたい、その事に尽きます。お浄土(彼岸)に呼びかけられ、共に生きられない自分に気付いた時、初めて共に生きたいという願いが私の中から湧き起ってくるのを感じました。


東本願寺出版発行『お彼岸』(2021年秋版)より
『お彼岸』は、毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『お彼岸』(2021年秋版)所収の随想の一つをそのまま記載しています。