手を合わせる
(谷口 愛沙 教学研究助手)

 おおよそ二十年前の夏、大谷大学主催のインド研修旅行に参加したときのことである。それまでも海外諸国を訪れたことはあったものの、その中でもインドは特別だった。
 

 この研修旅行では、約二週間の旅程で、仏教遺跡を巡る。しかし、ただ遺跡を見学するだけではなく、いくつかの場所では仏陀釈尊の遺徳を偲び、短いお勤めをした。そこで勤修されるお勤めは、私にとって初めてのことだった。
 

 それまで声に出したことのなかった「嘆仏偈」を参加者とともに読み、その場の作法は、周りの動きを見て真似しながら行う。参加者と一緒にお勤めをすることで、彼らの動きに合わせられる。初めてのことで戸惑ったけれど、少しずつそれに慣れている自分がいた。
 

 その一方で、それぞれの仏教遺跡でなされるお勤めの最中、考えていたことがある。私は、何かに対して手を合わせることに、どこか居心地の悪さを覚えることがあった。合掌し、目を閉じて拝んでいると、外側からそれを眺める自分がいて、さらに他人から視線を向けられているのではないかという想像で不安になる。それゆえ、神社や寺院といった宗教的な空間で、何かに対して合掌するという行為に抵抗感があった。
 

 振り返ってみれば、仏教が伝わってきた歴史において、合掌を通して大切にされているものは何かということを、インドを訪れた当時の私は、自分の事として考えられていなかったのかもしれない。だから、このような私が手を合わせるなんて恥ずかしい、という思いが拭えなかった。
 

 インドでは、これまで触れたことのなかった世界を五感すべてで感じていることへの、ある種の快感のようなものがあった。しかし、そうした思いとは裏腹に、旅行の中盤から、ずっと身体の調子を崩していた。終盤にさしかかると、参加者の中には、体調不良のために見学を断念する者も出始めていた。インドという地に初めて身を置くことで生じた環境の変化によって、心身ともに疲弊していく。そのため、宿泊先のホテルでは、少しでも時間ができたら体を休めたかった。
 

 部屋に向かって、一人で階段を登っていたとき、その踊り場の壁に貼られていたポスターが気になった。それは、仏像や仏教遺跡を紹介するもので、どういうわけか、そのポスターから目が離せなくなる。しばらく見つめていると、胸がいっぱいになって涙が出てきて、気づけば手が合わさっていた。というよりも、手を合わせたくなった、というのがそのときの感情により近い。そこには、インドという地で生まれた仏教に出遇ったことへの喜びがあった。
 

 合掌するときに付きまとった恥ずかしさや抵抗感は、「そのままのお前でよいのか」と私に突き付ける問いだった。このことに気づかされてからは、最初に抱いていた感情が次第に穏やかになっていった。
 

 その問いに対して「このままの私では苦しい」と応えるように、今も私は手を合わせる。

(『ともしび』2025年11月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)


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