仏前の横顔
(松林 至 教学研究所嘱託研究員)
あるご門徒のお宅にご法事でうかがったときのことである。曽祖母の法要に各世代が集い、にぎやかに出迎えてくださった。ひ孫たちが走り回り、託児所さながらの仏間で、孫にあたる若い親たちがわが子をなんとか座らせる。「はいみんな静かにするよ!」「今日は大ばあちゃんのお参りだよ」「大ばあちゃんに手を合わせるよ」。そうしてどうにか始まった法要が中休憩となったとき、ご存命の曽祖父が「大ばあちゃんに手を合わせる」との孫の言葉を受け、お茶を飲みながらこうおっしゃった。「今日はおばあさんにお参りするじゃねぇだ。おばあさんとお参りするだ」。叱るような言い方でもなく、味わいのある言葉が仏間に染みた。孫やひ孫はきょとんとしただけで、そこではそれ以上のやり取りはなかったが、その後の法要の雰囲気がぐっと落ち着いたものになったように感じた。
ふと思い当たったことがある。今ではオンラインでの聴聞の機会も増えてきた。その利便性や可能性は大いにあり、私も定期的に利用している。しかしどうしても慣れることができずにいる。利点が勝り、消えない違和感については深く考えずにきたが、そこにある決定的な違いのひとつが、「共に聞いている者がこちらを向いている構図」ではないか。オンラインの画面ではしばしば参加者全員の顔が正面から映し出される。画面の大小はあれども、基本的には皆の視線が私の方を向く構図になる。その圧迫感に配慮して、講師以外の画面が消されるなど、様々な工夫が試されてはいるが、共に聞く者が横顔になることはほとんどない。
しかし思えば、これまで私は多くの人の横顔を見てきたのだ。仏法を語っておられる師の顔を見つめながら、同時に、共に聞く友の存在をその横顔に感じてきた。オンラインでもそれは変わらないはずなのだが、物理的に生じる「横顔のないこと」への違和感を無意識におぼえてきたのかもしれない。仏と法に、共に聞く者たち(僧伽)を加えての三宝であることを改めて思う。
先のご門徒のおじいさんも、ご夫婦でお内仏の前にずっと座ってこられたに違いない。それぞれに様々な思いを抱え、横に並んで座り共に仏法を聞いてこられた。であればこそ、亡くなってなお、「おばあさんと手を合わす」時と場を念じておられるのだ。
人と人が仏前の横顔でつながる。家庭においてのお内仏、地域においての寺の本堂とはそんな役割を担ってきたのだと思う。共に大悲される者として身を置く場を、多くの方と創っていきたい。
(『ともしび』2025年12月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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