【三浦講の歴史】
三浦講は、歴史を戦国時代へ遡り、石山合戦で織田信長から本願寺とお念仏の教えを命がけで護った三浦衆(今津・海津・大浦の門徒衆)の先達の労苦を偲ぶとともに、門徒の伝統ある聞法の機縁として受け継がれている法要である。
湖西地区には、若狭から上洛する学僧を交えて地区内の僧侶が教学研鑽に励む場が開かれたことを契機として、二百余年に亘って「高島秋講」という秋安居が開かれているが、三浦講はそれを遥かに凌ぐ四百年以上の歴史を誇る伝統行事である。
かつて、琵琶湖は若狭と上方(関西)を船舶で繋ぐ重要な物流ルートとして活用されており、特に湖西地区の北部から湖北にかけての地区は、若狭から京都へと抜ける街道(通称「鯖街道」)が走っているほか、若狭から運搬された物資が集中する港町として栄えていたと伝わっている。琵琶湖が物流の重要拠点であったことは、織田信長が、安土城(近江八幡市)を拠点として、既にあった羽柴秀吉の長浜城(長浜市)と明智光秀の坂本城(大津市)に加えて大溝城(高島市)を築いて織田信澄を城主とし、琵琶湖全体を菱形に結んだネットワークを組んでいたと言われることからも伺われ、まさに「近江を制する者は天下を制する」と言われる所以がそこにあると言える。
また、ご当地に真宗が根付いた契機としては、蓮如上人との関係が深い。かつて、比叡山からの弾圧によって滋賀県の大津や堅田を経由して吉崎へと向かう蓮如上人は、物流の要所であった3つの港(今津・海津・大浦の3つの浦)を訪れたという。そして、ご当地のご門徒へ「一切衆生」を遍く救わんとする阿弥陀仏の本願を伝えられ、港町に集う民衆が深く真宗に帰依したことが、三浦衆と呼ばれるご門徒衆を育んだと言われている。
そして、朝倉義景と浅井長政を討って越前を制圧した後、信長は義景の家臣であった前波吉継を領主として在任させたが、吉継の度重なる悪態に反抗した越前門徒にクーデター(越前一向一揆)を企てられ吉継を討たれたことを契機として石山合戦が始まった。その後、信長は越前や加賀の南部に攻め入ることになるが、その前線となったのが、若狭へと続く物流拠点であった今津・海津・大浦の町であった。信長が越前へと送り込んだ兵は、長篠の戦で武田信頼を討った極めて巨大な勢力を持つ軍勢であり、ご当地の大勢のご門徒がこの軍勢に討たれていったと言われる。
また、戦乱の後に江戸時代に入ってからは、教如上人は、徳川家康が上洛する際の接見所として大津別院を建てられ、その別院建立にもご当地のご門徒が協力している。そして、ご当地のご門徒が御正忌報恩講へ参拝される際は、ご当地から大津の港まで船舶で渡り、大津別院を宿場として上山されていた。石山合戦以来、ご当地においても教如上人を慕うご門徒が大勢おられ、古くから伝承されてきた教如上人の御影を、現在では会所となる11寺の寺院で持ち回り、三浦講の厳修に先立って教如上人の御祥月法要が厳修されてきたとのことであった。